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内容にほとんど触れない漫画評:「ベルばら」から学んだこと(前編)

 

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私が子供の頃(1970年代)は、まだ「活字の本は偉い」「漫画は価値が低い」という前提が残っていて、例えば手塚治虫も「本はご飯、漫画はおやつ」といった苦しい言い訳を半ば強制されていたようである。

しかし当時の私の実感としては、漫画の方がずっと面白いし価値も高かった。

小学校低学年で、既に「よりぬきサザエさん」「オバケのQ太郎傑作選」といった有名作品のアンソロジーを熟読していた。もうこの時点で、説教くさい児童向け読み物の出る幕などはない。

小学3,4年頃に「火の鳥」ほかの手塚治虫作品に進んで、小学5,6年生で永井豪の「デビルマン」に衝撃を受けて、リアルタイムで「週刊少年ジャンプ」を読み始めるので、小学生対象の活字の本など眼中になく、読書感想文用の課題図書が退屈すぎて「読めない」と感じられるほどの差が開いていた。

いま思えば、ストーリーやメッセージ性やキャラクターの魅力、といった普通の面白さだけでなく、間接的に漫画から学んだことは実に多い。

今回も内容にほとんど触れずに「ベルサイユのばら」から学んだことを3つほど挙げてみよう。

 

ベルサイユのばら 全5巻セット (集英社文庫(コミック版))

ベルサイユのばら 全5巻セット (集英社文庫(コミック版))

 

 
学んだことその1.妹を経由して入ってくる情報は馬鹿にできない!

 

ベルサイユのばら」は妹が所持していたものを小学3,4年生くらいの頃に全巻読んだ。アフリカとアメリカの区別すら怪しいような年齢では「フランス革命」をどのくらい理解できていたかどうか疑わしいのだが、それでも多くの場面や台詞を鮮明に覚えている。

「ベルばら」の読了を通じて、妹の読んでいる少女漫画が馬鹿にできないこと、そして情報の入ってくる窓として妹は有益な存在なのだ、ということを学んだ。

そのおかげで、後々になっても友達のお姉さんや同じクラスの女子から少女漫画雑誌を借りるのに抵抗がなくなったのである。「バナナフィッシュ」を連載開始当初から愛読できたのも、漫画偏差値で75くらいありそうな「プチフラワー」にさえ親しむことができたのも、元はと言えば「ベルばら」と妹が原因である。

それに引き換え、こんな所で文句を言うのは何だが、漫画に関しては祖母や母親はメチャクチャと言っていいほどの対応や反応を示すのであった。

祖母はいきなりお寺かどこかで「父母恩重教のはなし」という漫画を買ってきてくれて、内容はありがたい宗教の話だが個人的にはあまりありがたくなかった、と言ってはバチが当たるかもしれないが、とにかく常軌を逸したレトロな絵柄のレトロな漫画だった。「本当にマジでお婆さんは感覚的にずれている」ということを学んだと言えば学んだのである。

母親はもっと酷くて、駅前の本屋でしか売っていない「火の鳥」の乱世編を買ってきてと頼んだら「ブッダ」の1巻を買ってきたことがあった。「これは違う漫画だ」と抗議すると、開き直って「同じ手塚治虫だからいいじゃないの」という論理で応戦してきたのである。

この時「女に理屈は通じない」、いや正確に言うと「世の中には理屈の通じない人もいる」ということを心の底から学ばせていただいた。

 

(後編 ↓ に続く)


内容にほとんど触れない漫画評:「ベルばら」から学んだこと(後編) - 何かのヒント