(前回からの続き)
学んだことその2.いい人の顔なのに、中身が極悪非道の人もいる!
漫画に限らず(絵本や映画など)、いかにも悪人らしい容貌というものがあって、通常は「外見と中身は一致している」というルールに従って物語を理解する流れになる。
ベルばらの中でも、例えば春風のような少女ロザリーは、
「いい人の顔=中身もいい人」
で、ジャンヌは、
「悪い人の顔=中身も悪い人」
という分かりやすい人物である。
悪人顔をした悪人の悪い行為を年少の読者が見るにしても、その容貌が読む側に心の準備をするための時間を与えてくれる。
だから、外貌と中身が一致する典型的な悪人は、さほど悪質な悪ではないのだとも言える。
物陰で「グヒヒ……」とほくそ笑む顔を年少の読者に見せてくれるのは、いわばソフトな悪人、良心的な悪人である。
ところがベルばらの外伝「黒衣の伯爵夫人」に出てくる伯爵夫人は明らかに「いい人」系の顔、しかも、ベルばら史上ベスト1と言っても過言ではないほどの美貌でありながら、ここには書けないほどの極悪非道ぶり、というか凶悪犯罪者、というかそれ以上の存在なのである。
その後も色々なフィクションで色々な種類の悪人を見てきたが、小学生の目撃できる範囲としては、かなり度を越してハイレベルな悪人である。
この人の場合は、最初にオスカルがちらっとその姿を見かけただけでゾッとしたりといった伏線があるにはあるのだが、ガチで「いい人の顔=きっと中身もいい人(ついでに華やか、優しそう、親切)」という絵が続くだけに、その正体との落差が激しい。言い換えれば作者と共謀して読者を驚かせる、悪質な悪人である。
私はこの経験により、人は見かけによらないという真理と、漫画表現の奥深さを学んだ。
「暗黙の了解」という言葉すら知らないうちに、いきなり約束を反故にされたかのような厳しい教育であったが、おかげで今に至るまで優しい系の美女の館で誘惑されもせず、金を巻き上げられもせず、密かに殺されもせずに平凡な人生を送ることができている(喜んでいいのか……)。
ところで、今になって振り返ってみると「いい人そうな外見だが極悪人」というのはマリー・アントワネットが正しくそのような人物なのである。「ベルばら」本編での彼女の極悪ぶりが年少の読者にはいま一つ通じにくいので、少し形を変えて外伝で補強したように見えなくもない。
黒衣の伯爵夫人の真っ黒な狂気は、マリー・アントワネットの真っ白な無自覚と対にもなっているので、そう考えるとこの外伝は正編のミニチュアのような趣もある。
学んだことその3.「主人公を一人と決めずに三人とした」発言!
マーガレットコミックス版「ベルサイユのばら」では、正編が終った後に作者のあとがきのようなページがあった。
その中に、この漫画の主人公は「特に一人とは定めずに、オスカル、アントワネット、フェルゼンの三人のつもりで描いた」という発言があり、これにはかなりの衝撃を受けた。
小学校の真ん中程度の学年では、読解問題の問一に、
「この話の主人公は、だれですか。 ア:お父さん イ:おばあさん ウ:よし男くん」
という問題があっても不思議ではない。
それがいきなり、ベルばらの主人公は誰ですか?という問題に直面して、
「ア:オスカル イ:アントワネット ウ:フェルゼン」
の三つの選択肢のうち、作者じきじきの断定で「三つが正解」とはハイレベルすぎる。
誰がどう見ても主人公はオスカルか、百歩譲ってアントワネットの可能性はあるにしても、絶対にフェルゼンはないだろう?
そもそも、表紙によく描かれている割合からしてオスカル様!
漫画の中で中心的に描かれているのもオスカル様!
盛り上がる場面も全て、オスカル様の恋愛と人生ではないか!
と、理屈っぽく迫ることのできるのは今だからなので、当時の自分はもちろん、ただジーッと「三人」という部分を眺めながら、頭上に「?」マークを浮かべていただけである。
それにしても主人公が三人というのは、かなり大胆な発想で、それを構想して描きあげたのも凄いが、適当に妥協してサラッと「主人公はオスカルです」としておけば済むものを、済ませない所に池田理代子先生の意地を感じる。
という訳で「ベルばら」は見かけ以上に様々なことを私に教えてくれたので、今でも感謝している。また「ベルばら」以外にも漫画から間接的に学んだり、知ったりしたことをあれこれ思い出したので、またの機会に書いてみたい。