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内容にほとんど触れない漫画評:「こうちゃん」と「わたしは真悟」

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須賀敦子の「こうちゃん」は全集の解説では「こうちゃん=神の子=キリスト」である、という解釈があって、それはちょっとどうかと思う。

私にはこの詩(のようなもの)は最初からひたすら、今はもう(書き手にとって)失われてしまった、かつては所持していた無垢な言葉への哀惜が綴られた、そういう微妙な追憶に関する詩のように思えるのであった。

しかし、それをうまく言葉にできないままでいた。

 

 こうちゃん、灰いろの空から降ってくる粉雪のような、音立てゝ炉にもえる明るい火のような、そんなすなおなことばを もうわたしたちは わすれてしまったのでしょうか。

 

 こうちゃん、けれど たとえわたしが ひとことも云うことばをしらないでも、あなたには わかっているはずです。 どれほど わたしが 朝ごとに あなたを待っているかを―。

 

こうちゃん

こうちゃん

 

 

「こうちゃん」の一行目は、

 

 あなたは こうちゃんに あったことが ありますか。

 

で始まる。

二行目は、

 

 こうちゃんって どこの子かって。 そんなこと だれひとりとして しりません。


しらないのかよ!とやや呆れる。

そして三行目以下は、このようになる。

 

 ただ こうちゃんは ある夏のあさ、 しっとりと 霧にぬれた草の上を、 ふとい鉄のくさりを ひきずって西から東へ あるいて 行くのです。 鉄のくさりのおもみで こうちゃんのうしろには、たおれた草が 一直線に つづいてゆきます。 どこまでも、 どこまでも。

 


このイメージは凄い。

ここまで読んで、続きを読む気にならない人がいるだろうか。

 

ところでこの印象的な冒頭の、そっくりさんを発見してしまった。それはこの、

http://d.hatena.ne.jp/ykurihara/000000

「『わたしは真悟』論をめぐって」

の中の四方田犬彦の文章で、以下は全部孫引き(コピぺした)。

 

 この独白を根拠づけているのはどのような主体なのか、誰もが迷うはずだ。ロボットに独白すべき意識があるのか。彼にあったとして、その死後に誰が語ることになるのか。ここに描かれた物語を誰が保存し、伝承し、地上より消滅した意識に送り届けることができたのか。そして、こうした論理的な疑問を超えて、なによりもわれわれを不気味な気持にさせるのは、冒頭の工場を出たトラックの背後であたかも凶事の兆であるかのように映えている夕焼けなのだ。「工場を出ると夕焼けがとてもきれいだったといいます……もちろん、わたしはなに一つ覚えてはいません……」。では、この夕暮の光景に立ち会っていたのは誰なのか。登場人物がまだひとりとして姿を見せる前に、誰がこの不在そのものを追憶することができたのか。ここに描かれているのは、ロボットの意識に捉えられた父母未生以前のコギトであり、それは世界の大いなる没落を暗示する夕焼けなのである。『わたしは真悟』はこうして冒頭の数頁で、意識の自己認識とありえぬ場所へのノスタルジアこそが主題であることをみごとに語っている。

 

「意識の自己認識とありえぬ場所へのノスタルジアという言葉は「わたしは真悟」論であると同時に、私にとっては感覚的によく納得できる「こうちゃん」論としても読めるのであった。私には「こうちゃん」と、「わたしは真悟」の冒頭のナレーション、そして終盤で地面を這う真悟の姿とは重なって見えるようである。

 

わたしは真悟 1 (ビッグコミックススペシャル 楳図パーフェクション! 11)

わたしは真悟 1 (ビッグコミックススペシャル 楳図パーフェクション! 11)

 


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