書くことなし日記:回文作りの効用編 その2

 

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回文作りの効用のその2は、普通に書いた文章よりも、人に読まれたり喜ばれたりする寿命が長そうに思える点である。

例えば、このブログに書いている文章は、三日ほど経つともう誰にも読まれなくなってしまうものがほとんどである。

作っても三日で溶けて消えてしまう雪だるまのようなもので、それを毎日書いているとやや空しく思えてくることもある。読者数が何百人というレベルの人は別として、それ未満のブロガーのほとんどはそんな感じではないだろうか。

ところが、回文は普通の雑感や感想を書いた文章よりもずっとコンパクトで、妙に収まりよく完結しているので、バカバカしさやナンセンス性が何年か後になってもそのまま保持され続けているような所がある。

実際、他の人が作った回文を読んでみても、数十年前の作品もごく最近の作品もそう変わらないのである。自分は複数のブログを並行して書いているが、仮にいきなり全てのブログの更新をやめたとしてら、十年後にも誰かに読まれて、喜ばれる可能性が高いのは回文だけではないかとすら思う。

作っている時も、何となく「できた!」と感じられる時の手ごたえが通常の文章とは違っているので、遊びの割には満足感が高い。

 

完璧な文章などといったものは存在しない。 完璧な絶望が存在しないようにね。

 

これはよく引用される「風の歌を聴け」の冒頭で、確かに質や内容で「完璧」な文章は存在しないかもしれない(この文章は少々ずるくて、完璧を否定することによって裏側から「完璧さ」を得ようとしているようにも見える)。

しかし「逆から読んでも同じ」という条件を完全に満たした文章を作っていると、時々ほんの微かな、うんと微量の、あるかなきかの「完璧」に触れたような気分になることもあるのである。

 

またたび浴びたタマ

またたび浴びたタマ

 

 

だから、村上春樹が回文集「またたび~」を出していることと、この冒頭の文章とはそう無関係でもないように思う。


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