俳句の本を読む:「魅了する詩型―現代俳句私論」小川軽舟

 

 

小川軽舟は俳句結社「鷹」の主宰で、この本は俳句の専門誌に連載された文章をまとめた評論集である。

初心者向けの俳句の定義などは書いていないが、結社や師弟関係、切れ字、ポエジー、文語、難解さといったテーマごとに明解な文章で明解な論旨の文章が続き、例句も適切なのでスラスラ読める。

 

魅了する詩型―現代俳句私論

魅了する詩型―現代俳句私論

 

 

 

 わずか17音の短く、つましい定型詩、俳句。それは、魅了する詩型である。句会、結社、師弟関係を積極的な俳句の仕組みととらえ、俳句とは何かから切字の効用まで、本質論かつ技巧論を縦横に綴る、気鋭の俳人の第一評論集。

 

 

つまり中級者向けの本で、漠然と俳句のことを知りたい、俳句論を読んでみようという人にも向いている。お勧め度は☆3つと4つの中間くらいである。

 

個人的に興味を強く惹かれた箇所が三箇所ほどある。一つは類似句の問題で、

 

 

いきいきと死んでゐるなり水中花 未知子

いきいきと死んでをるなり兜虫 まや

 

 

前者の櫂未知子の句を知りながら後者の句を発表したということで、非難された結果、謝罪して作品を抹消したとのこと。私ならよほどの悪意が感じられない限りセーフとしたいところだが、立場や人間関係次第では判断しづらいとも思う。

 

もう一つは昭和二十一年に発表された桑原武夫の論文「第二芸術 ー現代俳句についてー」に関する話題である。この論文の論旨は以下のようなもの。

 

 

第二次世界大戦直後、桑原武夫(くわばらたけお)が提起した現代俳句否定論。1946年(昭和21)『世界』11月号に「第二芸術――現代俳句について」の題で発表。47年白日書院刊『現代日本文化の反省』、52年河出書房刊『第二芸術論』に所収。桑原は、現代の名家と思われる10人の俳人の作品を一句ずつと、それに無名または半無名の句を五つ混ぜ合わせ、イギリスの批評家リチャーズの行ったような実験を試み、現代俳句は、作者の名前を消してしまえば優劣の判断がつきがたいということで、現代俳句の芸術品としての未完結性すなわち脆弱(ぜいじゃく)性をみた。彼によると、現代俳句は、他に職業を有する老人や病人が余技とし、消閑の具とするにふさわしいもので、「芸術」というより「芸」であり、しいて芸術の名を要求するなら「第二芸術」とよぶべきだという。桑原はこの第二芸術論を短歌や私小説にまで適用させ、日本の近代文化になお残る封建的残滓(ざんし)を手厳しく批判した。[大久保典夫]

 

 

ところが、肝心の現代俳句の引用には欠陥があって、雑誌の誤植をそのまま書き写したために支離滅裂な形で紹介されてしまったのだという。

 

 

呟くとポクリッとベートヴエンひゞく朝

 

 

とあるが、正しくは、

 

 

咳くヒポクリット・べートヴエンひゞく朝

 

 

ヒポクリットとは偽善者の意味だという。これでも意味がわからないといえばわからないのだが、最初の形よりは普通の俳句である。

 

 

三つ目は難解さに関する話題の所で、

 

 

つつがなく白紙にもどる冬の猫

 

 

この句は合評鼎談で「分からない」「全然分からない」と言われており、特に「白紙にもどる」がわからないとのこと。

筆者はこの句を、

 

 

僕は路地の小さな日溜りにいる白い猫を思う。さっきまでそこで目を細くしていた猫が、ふっと消えていた。あとには薄っぺらな日向が残っているだけだ。しかし、何の不足もない。つつがなく、いつもの日常に戻っただけだ。

 

 

と解釈しているが、それでも「僕の鑑賞が的を射ているか心もとない」と書いている。散文でないものを散文で説明しようとするところに無理があるという。

 

私個人は特に難解な句だという印象はなくて「つつがなく白紙にもどる」と「冬の猫」とは関連づけなくていいような気がする(少なくとも「もどる」の主語は猫ではない)。

会社や町内会といった集団で、ある程度以上に揉めた議題があって、それが何かのきっかけで思いがけず平穏に「つつがなく白紙に戻る」という状態を指しているのではないか。ただやはり、正解かどうか絶対の自信はない。

 

ところで私はこの本を図書館で借りて読んだが、今は新装版が出てタイトルも多少変更されている。

角川俳句ライブラリー俳句は魅了する詩型

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