内容にほとんど触れない漫画評:「父母恩重経の話」と行ってみたい時代

 

 

子供の頃、ときどき思いがけないタイミングで祖母がやって来ることがあって、しかも、

「アンタの好きそうな漫画を買ってきたげたわよ、ちょいと見てご覧よ」

と、満面の笑みと共にビッグなおみやげまで持参してくれたりしたものである。

しかし……。

 

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祖母が買ってきてくれたのは、まさしく↑この表紙の「父母恩重経の話」だったのであった。

 

(効果音:ガラスが粉々に割れる音)

 

ひと目見れば、これが講談社や小学館や、手塚治虫や藤子不二雄といったライン上にある漫画とは似て非なる別物であることはわかる。

猿にでもわかると言いたいところだが、それが祖母には全くわからないらしかった。

「子供」イコール「漫画を喜ぶ」といった発想しかないのである。

 

それにしても、この「寺院発行まんが」の絵柄のレトロぶり、時代とのズレ加減は、昭和五十年代の小学生の目にすら明らかであったというのに……。

まさか検索して出てくるとは思わなかったが、今でもお寺でそのまま売っているらしい。

 

仏教まんが・仏教書専門|青山書院|寺院発行まんが一覧 

 

だから祖母もお寺も駄目なのだ、反省してくれと言いたい訳ではない。

この「父母恩重経の話」は読んで字のごとく「父母」の「恩」が実に「重」いものであるという有難いお話が多いのだが、その中で読んだエピソードで忘れられない場面が一つあるので、その話をしてみたい。

 

それは子供に対して、叔父さんが棒で地面に両親の絵を描いて、どんどん描き足していくという場面である。

「いいかい太郎ちゃん。このように太郎ちゃんにはお父さんとお母さんがいるのだ」

「うん」

「そのお父さんにもまた、お父さんとお母さんがいて、お母さんにもまた、そのお父さんとお母さんがいるのだよ」

といった要領で、太郎ちゃんから父と母、そのまた父と母×2、そのまた父と母×4、そのまた父と母×8といった、いわば「増殖する先祖の図」を延々と描くのである。

両親のそのまた両親、のそのまた両親、という風に増やしてゆくと、十世代前くらいで大変な人数になる。

百世代やそれ以上まで遡ると、もう収拾がつかないほどになってくる。

単純に、遡れば遡るほど人数が一世代ごとに倍のペースで多くなる。

ということは、明治よりは江戸、江戸時代よりは平安時代、平安時代よりは縄文時代の方が人口が多いのではないだろうか?

 

しかし社会学的な常識としては、時代が古くなればなるほど日本の人口は少なくなる筈である。

歴史の教科書の挿絵でも、原始時代の人類は比較的広いスペースをのびのびと利用して、焚き火をしたり土器を作ったり、川で魚を掴んだり洞穴で体育座りをしたりしていたではないか。

ギュウギュウ詰めで、立錐の余地もないほどになっている縄文人の絵など、見たことがない。

 

だが、生物学的にも父母恩重経的にも、一人の人間には必ず父と母がいて、そのまた父と母がいて、さらにその前の父と母が遡れば遡るほどバイバイン的に栗まんじゅうの如く増え続けることもまた確実なのである。

 

ドラえもん (17) (てんとう虫コミックス)

ドラえもん (17) (てんとう虫コミックス)

 

 

そういう訳で、おそらくタイムマシーンか何かで縄文時代あたりに行くと、日本列島から人間が海に零れ落ちているか、あるいは人間の重さで日本が沈没するか、というレベルで人口がメチャクチャに多い筈である。

それを確かめるために、ちょっと縄文時代に行ってみたい気がするが、いざ行ってみても人が多すぎてタイムマシーンのドアが開かないかも知れないので、奈良時代くらいに止めておく。

 

今週のお題「行ってみたい時代」