書くことあり日記:個人史の中の「軽蔑」

 

 

軽蔑をめぐる回想記があったら面白いかもしれない。私の場合よく覚えているのは、高校の頃にビートルズを教えてくれたT君がやたらと光GENJIを軽蔑していたことである。

当時、迂闊に「光GENJIなんて、まあ別にどうでもいいじゃん」なんて言ったら殺されそうだった。

今だったら彼も「嫌いなものを排除することによって自我が形成されて……まあそういう風にして、だんだん大人になってゆくものなんだよ」と言うだろうか。

それとも「最近のヒットチャートはけしからん」と言うだろうか(言いそう)。

映画だとこういう場合、

「実は俺、本当は光GENJIが好きだったんだ!」

という衝撃の展開が待っていたり、

「もう音楽なんて聴いてないよ、だいたいビートルズのレコードなんて黴が生えてるし、俺には慰謝料と借金が……」

的な愚痴や幻滅が待っていたりするものだ。

 

光GENJI ベスト

光GENJI ベスト

 

 

T君の頭の中がもしビートルズへの関心・情熱・愛情だけに満たされていたら、光GENJIへの軽蔑は入る余地がなかった筈だ。

軽蔑にはどこかしら濁りやブレがあって、純粋でない。

「純粋な軽蔑」というものを考えにくいのは何故かというと、真に純粋な軽蔑は関心すらも軽くなって、ついには無関心になってしまうからであろう。

軽蔑は「無関心になりきれない」という負い目を常に持っている。

 

人生論ノート (新潮文庫)

人生論ノート (新潮文庫)

 


書いているうちに何だか三木清の「人生論ノート」みたいな調子になってきてしまった。

上に書いたことは自分の頭で考えたというより、どこかで読んだことを思い出して書いたように感じられる。


別の記事へジャンプ(ランダム)