三木清「人生論ノート」を再読して再発見した文章のベスト10 【前編】

 

 

三木清の「人生論ノート」を最初に読んだのは、おそらく昭和の終わりか平成の初め頃である。今からおよそ二十年以上も前の話で、しかもその頃すでに本書は「ふた昔くらい前の青春の書」というイメージであった。

しかし実際に書かれたのは昭和十三年~十六年で、かれこれ七十年以上も昔の本である。

それが今でも絶版や品切れにならず書店で売られているというのは驚きだが、内容が簡潔で論理的で、詩的な面すらあって、時にはユーモラスで、しかも少しも古びていないことにはもっと驚く。

短い文章の集積になっているので、今ならツイッター的だとすら言える(注)。

 

そういう訳で今回は、久々に再読して再発見した気になった箇所、そして以前にも感心した箇所をピックアップして、そこから篩にかけたベスト10である。

最初はベスト10圏外の、もう少しでベスト10入りできた短文を幾つか挙げてみるので、準備体操のつもりで読んでいただきたい。

 

 

 

 嫉妬はつねに多忙である。嫉妬の如く多忙で、しかも不生産的な情念の存在を私は知らない。 (嫉妬について)

 

 

 孤獨には美的な誘惑がある。孤獨には味ひがある。もし誰もが孤獨を好むとしたら、この味ひのためである。孤獨の美的な誘惑は女の子も知つてゐる。 (孤獨について)

 

 

 すべての思想らしい思想はつねに極端なところをもつてゐる。なぜならそれは假説の追求であるから。これに對して常識のもつてゐる大きな徳は中庸といふことである。 (假説について)

 

 

 中庸は一つの主要な徳であるのみでなく、むしろあらゆる徳の根本的な形であると考へられてきた。この觀點を破つたところに成功のモラルの近代的な新しさがある。 (成功について)

 

 

 機嫌がよいこと、丁寧なこと、親切なこと、寛大なこと、等々、幸福はつねに外に現はれる。歌はぬ詩人といふものは眞の詩人でない如く、單に内面的であるといふやうな幸福は眞の幸福ではないであらう。幸福は表現的なものである。鳥の歌ふが如くおのづから外に現はれて他の人を幸福にするものが眞の幸福である。 (幸福について)

 

 

 人間が生れつき嘘吐きであるといふのは、虚榮が彼の存在の一般的性質であるためである。そこで彼はけばけばしいこと、飾り立てることを好む。虚榮はその實體に從つていふと虚無である。だから人間は作り事やお伽噺を作るのであり、そのやうな自分自身の作品を愛するのである。眞理は人間の仕事ではない。それは出來上つて、そのあらゆる完全性において、人間とは關係なく、そこにあるものである。 (僞善について)

 

 

 孤獨を味ふために、西洋人なら街に出るであらう。ところが東洋人は自然の中に入つた。彼等には自然が社會の如きものであつたのである。東洋人に社會意識がないといふのは、彼等には人間と自然とが對立的に考へられないためである。 (孤獨について)

 

 

  嫉妬は自分よりも高い地位にある者、自分よりも幸福な状態にある者に對して起る。だがその差異が絶對的でなく、自分も彼のやうになり得ると考へられることが必要である。全く異質的でなく、共通なものがなければならぬ。しかも嫉妬は、嫉妬される者の位置に自分を高めようとすることなく、むしろ彼を自分の位置に低めようとするのが普通である。 (嫉妬について)

 

 

ほとんどの章題は「~について」という形になっている。

中でも面白いのは「怒について」で、ここは全編引用したいほどであるが、絞って四箇所だけ挙げる。

 

 

 ひとは輕蔑されたと感じたとき最もよく怒る。だから自信のある者はあまり怒らない。彼の名譽心は彼の怒が短氣であることを防ぐであらう。ほんとに自信のある者は靜かで、しかも威嚴を具へてゐる。それは完成した性格のことである。 (怒について)

 

 

 すべての怒は突發的である。そのことは怒の純粹性或ひは單純性を示してゐる。しかるに憎みは殆どすべて習慣的なものであり、習慣的に永續する憎みのみが憎みと考へられるほどである。憎みの習慣性がその自然性を現はすとすれば、怒の突發性はその精神性を現はしてゐる。 (怒について)

 

 

 怒は復讐心として永續することができる。復讐心は憎みの形を取つた怒である。しかし怒は永續する場合その純粹性を保つことが困難である。怒から發した復讐心も單なる憎みに轉じてしまふのが殆どつねである。 (怒について)

 

 

 神でさへ自己が獨立の人格であることを怒によつて示さねばならなかつた。 (怒について)

 

 

ここからはいよいよベスト10の発表である。

まずは第十位。

 

 いかなる作家が神や動物についてフィクションを書かうとしたであらうか。神や動物は、人間のパッションが彼等のうちに移入された限りにおいてのみ、フィクションの對象となることができたのである。ひとり人間の生活のみがフィクショナルなものである。人間は小説的動物であると定義することができるであらう。 (虚榮について)

 

ブッツァーティの短篇「天地創造」には神や動物や天使ばかりが出てくる。

「人間」という素材を扱う手つきが三木清っぽいので、「人生論ノート」が好きな人にはお勧めである。

 

 

続いて第九位。

 

 自分では疑ひながら發表した意見が他人によつて自分の疑つてゐないもののやうに信じられる場合がある。そのやうな場合には遂に自分でもその意見を信じるやうになるものである。信仰の根源は他者にある。それは宗教の場合でもさうであつて、宗教家は自分の信仰の根源は神にあるといつてゐる。 (懷疑について)

 

皆が世界に向かって意見を発信するような世界になるとは、三木清も予想していなかったのではないだろうか。今や子供でも、誤解される可能性込みで何かを言うのが常識であるような世の中になっている。その割には自分も他人もグラグラしていて、死ぬまでフラフラしているような神なき世界である。

 

 

次は第八位。

 

 幸福は肉體的快樂にあるか精神的快樂にあるか、活動にあるか存在にあるかといふが如き問は、我々をただ紛糾に引き入れるだけである。かやうな問に對しては、そのいづれでもあると答へるのほかないであらう。なぜなら、人格は肉體であると共に精神であり、活動であると共に存在であるから。(幸福について)

 

三木清は何かを二つに切り分けて図式化したり、擬人化したりすることによって物事や概念を整理する。

また、あえて分離せずに「全体」「一つのもの」として 把握する場合もある。

 

【後編】↓ へ続く。

 

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(注)と書いて後で調べたら、実際に「人生論ノートbot」があった。

 

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