尿意とアドラー心理学

 

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今日は午後一時頃から「オシッコしたい」という漠然とした尿意を感じたものの、午後二時に仕事の約束があって、解放された時にはすでに午後三時近くになっていた。

車に乗ると急にまた尿意が戻ってきて、切迫した状態になった。しかし、さすがに「もはや1分も我慢できない、今ここで漏らしてしまうしかない!」というほどではないし、かと言って、どこかで立ちションをするという訳にもいかない。

車を運転しながら、およそ五百メートル先にスーパーがあるなとか、それよりこの信号を反対に曲がって、またあっちに曲がればコンビニがあったはず、などと考えて最も近いセブンイレブンに車を停めた(所要時間約4分)。

もう歩いていても内股で、ひょこひょこしている、というほどではないにせよ、それなりに緊急事態であった。

ところが、いざトイレに行くと戸が横に動かない。

鍵をかけてトイレを使用している人間がいると思えなかったので、二、三回ほど横に引っ張ったのだが、それでも少しも動かない。「コンコン!」とノックしてみたら、中から「ドン、ドン!!」と明らかに怒気のこもった大きなノックが返ってきた。これが自分には意外で、びっくりした弾みで尿意が引っ込んでしまったのである。

結局、待っていて中の人と顔を合わせるのも気まずいので、そこから三百メートルほど先のスーパーに行って、用を足した。

この「びっくりして尿意が引っ込む」というのはどこかで読んだ気がすると思って、思い出したのが「嫌われる勇気」である。

 

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

 

 

この本を読んで感心した箇所があって、それは「我を忘れて激怒しているような時でも、急な電話が入ると、その怒りを引っ込めて対応するではないか」という指摘である。

つまり、ほとんどの人は感情的になっていると見える(自分自身でもそのように思える)ような場合ですら、実は感情をきちんとコントロールして、都合よく出したり引っ込めたり、捏造すらしているものだというのだ。

これと同じで「オシッコもれそう!」という生理的切迫感も、アドラーの指摘のように実は気の持ちようで「出したり引っ込めたりできる」ものらしい。

もしかするとアドラーという人は、オシッコを我慢したり、激しいノックに驚いたりした経験から上記の感情の制御理論を思いついたのではないだろうか?な訳ないか。


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