関西弁で話す幕府

出口治明の「ゼロから学ぶ日本史」はよく見たら初出が週刊文春の連載だった。それならビジネス寄り、おっさん寄りで当然といえる。

そして自分も明らかに「おっさん」のストライクゾーンに位置しており、読みやすく、分かりやすく、ほどほどの大まかさと細かさを兼ね備えている本なので、実にすいすい読めるのであった。

やはり中学高校の参考書は「ここ、テストに出るぞ!」「入試に頻出!」という脅し文句が背景にあり、歴史における重大事というよりは「テストによく出る事項」の羅列で、その隙間を学生向けに上手に埋めるのが人気のある先生となる。

 

 

一方、受験目的以外の日本史の本は、大人一般を相手に興味を搔き立てつつ話を進めるので、娯楽性と実用性とお得感、さらにはエンタメ的な語り口まで必要になってくる。

このシリーズの場合は、何かにつけて人物が関西弁で話し、それを書き手が代弁するような記述になっていて、そこが良くも悪くも分かりやすい。

「本当に来よったな、これはなめたらあかんで」

これは元寇の際の幕府の心情で、擬人化されてセリフまで付けられている。

他にも歴史上の人物が、

「これはえらいことやな」

「お前は傍系のラインやないか」

「守護より偉いのがいるんやで」

と、しょっちゅう関西弁で話す。

中世は京都や大阪が舞台になるので、

「確かにホンマのとこは、こんな感じかもしらんで。むしろリアルやん……、むしろ、これが本物の歴史とちゃうんかい!」

と、つられてこっちもエセ関西弁で考えてしまう。

しかし江戸時代に入ると、江戸にいる将軍まで関西弁で心情を述べるので「結局ウソやんけ!!」となるのであった。

日本史のビジネス教訓化

前回は「無味乾燥な文章ではなく、少しは個性的な文章で書かれた本がいいよね~」と書いたつもりであった。

その後、たまたまブックオフに寄ったら出口治明の「ゼロから学ぶ日本史」があり、読んでみるとこの人自身の声が文章に沁み込んでいる。

いかにもこの人の体温、感情、個性が漲っている文章である。

 

 

しかし……。

平清盛は中世日本のジョブズ」といった、いかにもビジネスマン向けのキャッチコピーと見立てに満ちているのであった。

この種の書き手にとっての信長は「創造的イノベーションを牽引するリーダー」であり、秀吉は「上司も部下も魅了する! 人心掌握術の大家」、家康は「長期安定企業の名誉会長」になり、史上のあれもこれも現代の企業組織に当てはめて、長大で複雑なはずの歴史をお手軽なビジネス教訓に変換してしまう。

これもまた、巨大な「日本史ビジネス」市場の一角をなしている代表的な本なのであった。

日本史の概要が分かる本を求めて……

日本史に関する需要はかなり高いらしく、知るべき理由も沢山ある。

おさらいとか復習とか学び直しとか、「オトナのための教養」とか、「仕事人としての常識」とか、「ビジネスマンとしての学び」とか、「大河ドラマの理解を深める」とか、アニメや漫画関連本とか、「今、歴女が新しい」とか、あれこれの理由がつく本が束になって一大市場を形成している。

しかし、概要がわかると言っても精粗さまざまで、大雑把に書いた本は「あれが書いていない」「これについて詳しく書くべきでは」という批判が絶えない。

細かく書いてあると、今度は「とっつきにくい」「もっとわかりやすく」となるのも容易に想像できる。

それよりもっと困るのは、書き手の顔や人柄が少しも見えない文章になっていることではないかと思う。

著者近影や経歴があるにしても、あまりに無味無臭すぎて、どこかのスマホショップの店員の説明を延々と聞かされているような味気なさばかりが残る、そういう文章で書かれた本がけっこう多い。

そういった独特の平板さが見えるようになると、逆に個性の際立った時代小説作家や学者の本が有難く思えてくる。

そこを「あれこれ手探りしながら、あっちこっち読む」といった調子で読み漁るのも面白い所で、いつの間にか変なコースに入っていたり、誤った知識を覚えていたり、俗説に魅了されたりを繰り返して、自分独自のカクテルのような知識と史観めいたものが生成されつつある。

これは独学者には避けられない落とし穴である。しかし、正式に勉強したところで多かれ少なかれ同じようなものだし、それを修正しながら学び続けるしかない。

一応、今は「一冊でわかる」というシリーズが自分に合っており、何というか「人当たりのいいマイルドな感じのスマホショップの店員さん」みたいな本である。

 

 

なぜか図書館によく置いてある本でもある。