自分自身の発想の源に気づく

ある長めの文章のコンセプトを思いついて、あれこれ検討している。

2,3か月ほどかけて、次第に「こういうことを書きたい」「こういう風に書こう」という案がまとまってきて、やや客観視できるようになった。

 

すると以前どこかで目にしたフレーズやら読んだ本やらの言葉を思い出すようになり、長い時間をかけて影響を受けていると気づく。

 

たとえば「ヨーロッパ全史」のあとがきに「深くより、広く浅くをまず目指すべきだ」とあった。

 

 

こういう考え方はこれから書こうとしているものに近い。

あるいは将棋の本で「最新戦法の話」。

 

 

かなり前の本だが、「後回しにできる手は後回しにする」というフレーズはほとんど諺のようなレベルで頭にしみこんでいる。しみ込んだ結果、ようやく今のアウトプットに結びついたのであった。

 

知らない誰かの作品の元ネタにはすぐ気づいても、自分となると元の材料が溶けて消えているようなものなので、なかなか自覚できない。

 

「あっ、これが元だったのでは?」と、ある瞬間に確信できる。それはちょっとした発見ではあるので驚きと嬉しさを感じる。しかし結局のところ、自分自身の中で醗酵していく過程は不透明なままなのだ。

最近の大谷教

自己啓発本の傾向が、仏教の流れにそっくり」という意見を見かけた。

 

以前の自己啓発本:自分で努力して出世、成功する!

その後の自己啓発本願うだけで、出世や成功の夢はかなう!

 

 

これが仏教の場合、

 

小乗仏教:出家して修業を積んで悟りを啓く!

大乗仏教出家しなくても、念仏を唱えれば救われるよ!

 

 

何だかものすごくイージーな方向へ進んでいるような気がする。要するに怠け者を甘やかして、怠け者から受けているだけに思えてきた。単に俗受けするだけの、大甘の理屈ではないか。

 

 

 

 

その点をはっきりさせるために「大谷翔平になりたい教」といった宗教を考えてみたい。

 

昔の大谷教:投打で活躍するためには、ピッチングとバッティングの猛練習が必要だ!

最近の大谷教:願っていれば、みんなが大谷翔平になれるよ!

 


いい加減だなあ。

しかし後者の方が絶対に受けそうだし、本当に21世紀の人類はこの程度でいいのだろうか。弱者救済というより、民衆の阿片ではないか。願っているうちに、間違いで火野正平にでもなった方が本人のためではないだろうか。

本当は痛いはず

平家物語」などの軍記ものを読んでいて、痛みに関する描写がないのは不思議に思われる。

考えてみると20世紀の戦争映画でも、戦死は描かれていても痛みはほとんど描かれていない。やっと「プライベート・ライアン」あたりから痛み止めのモルヒネや、死ぬ寸前の錯乱や痛み、苦しみ、諦めが生々しく描かれるようになったのではないか。

日本のやくざ映画の場合は指を詰めるシーンがあるので、見ている側も「これは痛い! 痛たたたた!」と共感する。しかし、それ以外の外傷にはさほど痛さを感じない。むしろ突然の裏切りや仲間の無駄死にの方が「痛たたたた」と感じるくらいだ。

 

 

江戸時代あたりの時代物となると、武士が多少の切り傷で「痛い! 痛いでござる」なんて言わなくて当然である。何しろ常に切腹や打ち首の可能性があるので、こちらも「きっと覚悟が決まっているはず」と考えている。

しかし「平家物語」の頃は、まだ武士だか荒くれ者だか、犯罪者だか農民だか、はっきりしないような連中ばかりである。思想的にもあまり固まっていないはずで、学校がないので「人の痛みのわかる人になりたいです」なんて優等生ぶっている暇すらない。

16、17歳くらいの少年も登場するので、やはり重症なら「痛い!」と叫び、「痛いよう」と泣きわめく子もいたのではないだろうか。あるいは感覚が麻痺していて、ほとんど痛みは感じないのだろうか?