前回の続きで、
第七位は!
「蛍来い。ゴッチの水は辛いぞ」!
カール・ゴッチが誰でどういう職業の人なのか、分からなくても読める文章である。
菊地成孔は自身のライブに女流文学者が多く来ているという情報を得て、以下のように妄想する。
自分がすっかり女流文学者泣かせの音楽家になってしまっているのだとしたら……まずい。女流文学者というのは人口10万人に対して1人とかそういった……これはもうやることは一つ。そう、それは文士劇の復活であーる。
演し物は決まっています。菊地成孔作「奇跡の人々」。ご存知へレン・ケラー。登場人物全員へレン・ケラー。なので「奇跡の人々」。台詞が一つもない戯曲で劇作家デビュー。音楽は最初から最後までマイルス・デイヴィスの「ユア・アンダー・アレスト」。文士劇にして宝塚と、これをフジロックで上演。
ああ。こうして当欄開始以来最悪の混乱ぶりを発揮しているのも、カール・ゴッチが亡くなったからであります。
こういう文章を読むと、ユリイカの表紙ではないが「詩と批評」という言葉が思い浮かぶ。菊地成孔の文章にはいつも詩と批評が含まれている。
続いて第六位!
「ラジオではアイウエオ作文で」!
これは二つある立川談志追悼文の二つ目。
子供の頃に初めてテレビで見た談志の印象を「現在のボキャブラリーに翻訳すれば、こんな感じですよ」と書いている。
「ああ、この人は凄く嫌われているな。頭が良すぎて、欲求不満が強すぎて、アンビバレンスにもがき苦しんでいるのだから仕方がない。自分はこの人が言ってる事が嘘にも真実にも聞こえるぞ。落語をやってるのも見たけど、落語を聞いてる気が全くしないぞ。でもとにかく、きっとこの人が死ぬ時は本当に良い人で、みんなに愛される人だという事になって死ぬに違いない。」
談志関係の本を好んでチェックしている人の目には、なかなか留まらないような文章なので、そういう人にこそ勧めたい。
「嘘にも真実にも聞こえるぞ」という部分は、いかにもその頃の談志の印象として生々しい声である。私が最初に談志を見たのはやはりテレビで、その時は「バンダナを頭に巻いた変なおじさん」でしかなかった。
第五位!
「絶対エンジェルになんかならない彼女へ」!
これはエイミー・ワインハウスへの追悼文で、オーバードーズによる死に関する経験や考察が続く。
彼女が天国なんか行っちゃったら、急にいい子になっちゃって、ヒラヒラのベールみたいなの着ちゃって。頭に輪っかが付いて。了見変わっちゃって。天国に行ったらエンジェルになっちゃった。なーんてことにならない事を祈りますよ。向こうに行っても、相変わらずドアを開けた奴を毒づいてね。
第四位!
「追悼 忌野清志郎」。
一度だけ川崎クラブチッタで、故人の主催する年越しイベントに出ましたよという思い出(というか酷い経験)と、後半は特定の曲についての思い入れの話である。
追悼文に求められる要件を充分以上に満たして、しかも完成度が最も高いのは本書中でこの文章ではないかと思う。
後半、ある特定の曲について書かれているのだが、あえてそれをうろ覚えのまま書き綴るという、変則的でありながら「これしかない」と思わせる流れになっている。
輪郭線の太い、シンプルで凄まじい言葉と声が、ワンセンテンスごとに、発せられるたびにこちらの胸に突き刺さり、乱反射して、こちらのハートが普通でいられなくなってしまう。という現象は、ジャズと言わず、ロックと言わず、他のジャンルでは起こり得ませんし、また、起こるべきでもありません。これは、最も優れたフォークとブルーズの力であるとワタシは考えます。
明確な記憶ではないので、ファンの方々には失礼に当たるかもしれませんが、正しい情報は、どうかワタシに教えないで下さい。ワタシは、曲のタイトルも憶えていませんし、メロディーの動き方も憶えていません。正確な歌詞も憶えていません。しかし、以下の様な言葉をはっきりと憶えています。シンプルなコード進行に乗って、故人は、一行ずつ絞り出す様に、しかし軽やかに、こう歌い出しました。
この曲はRCサクセションのかなり有名な曲で、書かれた歌詞は日本語をもう一度、日本語に意訳したような奇妙な歌詞になっている。
しかし追悼文に正確性など求めるべきではないし、それ以上の何かがここには表現されている。曲名をあえて書かないことによって、かえってその曲の与える印象が(知らない人にとってすら)鮮明になるという名文である。
第三位!
「加藤和彦氏逝去」。
追悼文はただ故人の業績を称えればよいかというと、そうでもない。
故人と誠実に向き合えば向き合うほど、称えることができなくなるというケースもあるようで、この文章は遠回しに気を遣いながら「幻滅」を書いている。
妄想による神格化は、言うまでもなく自己愛の反映です。自己愛の反映によって対象を歪めてしまう。という、ありきたりな罪をワタシは犯し、静かに、小さく罰されたのでした。ワタシに、そしてあらゆる対象に対して、同じ罪を犯す10代のリスナーも数多くいる事でしょう。ワタシに申し上げられるのは、しかしこの程度の罪と罰は、むしろ人生を豊かにするという事です。
我々は、アンチエイジングなどしている場合ではない。大人という、非常に贅沢な演技が全う出来、老人という、非常に贅沢な本質が全う出来る社会を取り戻すために、全セクション総力を挙げて闘っていかねばならないのです。故人の死をデカダンにしてはならない。心よりご冥福をお祈り申し上げます。
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第二位!
「ビリー・ジーン」!
言わずと知れたマイケル・ジャクソンの曲名を冠した、マイケル・ジャクソンの追悼文である。
もし、最も正しい追悼文があるのだとしたら、それは「何も書けません」と書くこと以外にはない、という矛盾した性質が追悼文にはある。
文章をこねくり回したり、表現を工夫したり、推敲したり、思い出したり、考えたり、懐かしんだりする、といった一連の作業そのものが出来ない、というほどの驚きと悲しみで何も書けないのです、という告白こそが正しい追悼のあり方ではないかという主張の前に、雄弁な追悼文は色を失う。
「言葉もない」という慣用表現がありますが、おそらく生まれて初めて、その状態の中におります。
に始まるこの追悼文は、またしても有名な曲の引用へと続く。
その曲は1970年を、というよりほとんど二十世紀を代表するような有名なポップ・ソングである。
きっとあなたが生まれた日は
天使たちが集まって 彼等の夢を叶える事にしたのよ
それであなたのブロンズの髪には星屑を
蒼い目には星のきらめきを散りばめたんだわ
この選曲と歌詞の、特にこの部分は、マイケル・ジャクソンの生涯を思うと耐え難いほど苦い。
この曲を歌っていたあの人も、マイケル・ジャクソンも、この歌の中の「あなた」のように憧れの視線と賞賛を浴びて浴びて浴び続けて、そして、結果としては苦い後味を残すような幕の引き方しかできなかった。
二人とも「光が強ければ強いほど、闇の部分も濃くなってしまう」という典型的な例に挙げられるような人物であった。単に美しいだけの追悼文は嘘も多いのだろうなと、そういったニュアンスを微妙に、隠し味として底に匂わせているような選び方である。
いよいよ、
第一位は!
「あとがきにかえて」!
通常「あとがき」のある場所に位置する文章で、菊地雅章と相倉久人の二人の追悼文である。
「JAZZLIFE」を読んでも読んでも、このアルバムの事も、この人(菊地雅章氏)の事も解らない。こんなに物凄いのに、批評家に理解されないのだ。こんなに素晴らしいのに、批評家はまるで、申し合わせて口を閉ざしているかの様なのだ。「ススト」とはスペイン語で、恐怖による一時的なショック状態の事を意味する。何て素晴らしいタイトルなんだろう。何て素晴らしいジャケットなんだろう。来るべき80年代の総てがこのアルバムにはあるかも知れないというのに。
「先生、ワタシね、懇意にしてくれる方がみんな死んじゃうんで、死神って言われてるんですよ(笑)」
「ほう(笑)。そうですか、それは奇遇ですなあ(笑)。実はボクもそうなんですよ」
いずれの文章も直接に出会ってはいるものの、微妙に出会いきってはいないような、空振り感を惜しむような文章になっている。それだけに一層、余韻が深い。
思うに、出会いきれなかった人にこそ、哀惜の念はより強まるものなのかも知れない。
だからと言って、やり直しがきくものでもない。
本書は長い間、仮のタイトルが「死神」であったというが、いずれ皆が死んでしまうのであるなら、人生において出会う皆が皆、お互いに死神のようなものではないだろうか。