下降する意識

 

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 こんな夢を見た。
 ある日を境にして、しゃっくりに悩まされる人が増えた。日本だけでなく、世界各地でしゃっくりをする人々が増える一方になった。

「原因はヒック、何だ、ヒック、ろう」
「新しい種類の、ヒック、病気かしら」

 この現象が世界中に広まると、次には意識の下降が始まった。
 自分の意識が下へ下へと移動を開始しているように、世界中の誰もが感じたのである。

「まるで、脳みそが鼻や口のあたりまで降りてきているみたいだ」
「下に引っ張られた分だけ、頭のてっぺんが高くなったような気がするわね」

 通常、誰もが額のあたりに自分自身の意識を感じている。そこに脳が存在しているからである。
 ところが、その位置が一日に一センチほどのペースで、ずるずると下がっているように感じられるのだった。
 日本政府の公式発表によれば、
「レントゲンで数千人の人々を検査してみたところ、何の異常も発見できませんでした。まったく心配はありません」
 とのことだった。
 野球選手は投打の成績が落ち、サッカー選手はヘディングの精度が落ち、その他のスポーツも珍プレーが増えた。ミリ単位以下での手作業を行う職人や外科医は、相応の不自由に悩まされた。
 人々は多少の不便を感じたものの、これといって日常生活には支障がないため、パニックにまでは到らなかった。
 世の中の表面は平穏のままだが、日に日に意識は下降していった。政府の発表から二週間後には、もはや誰の意識も首を経て、胸の周辺にまで下がっていた。
 目で何かを見ていても、胸のあたりから潜望鏡を介して眺めているような距離感があった。鼻も耳も口も、どこか遠くで起きている事象を他人が感じているようで、人々は焦りながらもどこか冷めていた。

「ずいぶん現実が遠くなったよなあ」
「現実は遠くなりにけりか。仮想現実や仮想通貨なんかに夢中になっていたから、ばちが当たったのかな」
「このまま下へ降りてゆくと、意識はどこへ行くのだろう」
「逆立ちをしても戻らないしなあ」
「胃で消化されたりしないのかな」
「どうも最近は顔の表情が乏しくなってきたようだな、自分も他人も」

 人々はこの現象について、誰かと議論したくて仕方がなかった。家庭でも、学校でも、職場でも、ネットでも、人の集まるところではどこでも議論が交わされた。

「あのしゃっくりは、この事態の前触れだったのか」
「敏感な一部の人間は、異変を感じていたのだ」
「あの時点で、何らかの対策を立てておくべきだった」

 しかし、いくら議論してみても結論らしきものは出なかった。それに、どこか自分よりずっと高い、雲の上で交わされている議論を見上げているような疎外感がぬぐいきれなかった。
 そうこうするうちに、意識の平均的な位置は臍のあたりにまで落ちていた。

「おい、臍の穴の向こうに光が見えるようになってきたぞ」
「嘘つけ、そんな曲芸みたいなことができる訳がないよ。第一、両目は相変わらず上の方にあるんだしな」
「臍から意識をピュッと外に出して、脳に移植できないかな」
「無理無理。それより、水の飲みすぎには注意した方がいいぞ」
「どうして?」
「下痢をしたら、お尻から意識が出て行ってしまうからな」

  さらに意識が下降してゆくと、別種の懸念も生じてきた。

「股のあたりまで行くと、意識はどうなるんだろう?」
「男の場合はY字路みたいに、左右どちらかの足に進むだろうな」
「女の場合は三叉路みたいになっていて、真ん中に進むと外に出てしまうのかな。子供を産む時みたいに、痛みを感じながら自分の意識を産むのかもしれない」
「バカなこと言わないでよね。何で自分が自分を産むのよ、その陣痛はどっちの自分で感じるのよ」

 そのような議論をしている間に、意識は股で二つに分かれた。やわらかい餅を、立てた板の上に置いたように、半々に分かれる意識もあれば、片寄ってしまう意識もあった。
 しかし人格が二つに分かれるようなことはなく、右手と左手を動かす意識が中央で通じているように、つながったまま二手に分かれた意識は、とろけるように落ちてゆくのであった。
 不幸な事故や病気で、下半身を失っている者も大勢いた。彼らの意識はどこかへ出ていったらしく、身体が生きてはいるものの、中身のない人形のように動かなくなってしまっていた。

「一体、この先はどうなるのだろう」
「意識が体の下まで行って、さらに落ちると、ああいう風に抜け殻になってしまうのだろうか」
「今はもうひざの辺りだから、ひざカックンは世界的に禁止にするべきだ。あれをやられると、心が折れてしまうよ」
「今となっては、普通に歩くだけでも心が曲がるからな」
「もう動くのも嫌になってきた。人類はもうお終いだ」

 人々は弁慶の泣きどころの辺りで嘆き悲しみ、ずっと上の方の目から涙を流した。
 やがて意識はくるぶしまで落ちて、とうとう足の裏を通過し始めた。

「ああ、とうとう自分の体ともお別れか」
「俺たちは死ぬのか。これは宇宙人の陰謀なのか、それとも重力の異常なのだろうか」
「肉体から魂が落ちたら、痛いのかなあ……」
「さようなら、自分。そして、みんな。さようなら、この世」
「この先は、あの世に行くことになるのだろうか」

 皆の意識が、自分の肉体から離れ始めた。

(あれ、意外と痛くなかったし、気分も変らないぞ)
(何だ、お前じゃないか。生きてた頃とほとんど変ってないな)
(ああ。姿はないけど、お互いに気配で分かるもんだな)

 それぞれの意識は地表の土や岩を通過して、しゃぼん玉のようにゆっくりと、暗い地層を降下していった。
 それでいて、しゃぼん玉のように割れることはなく、ぶつかりあっては大きな玉になって、また落ちてゆく。

(何だか、かえって広々とした世界に来たような気がするな)
(落下するのって、気持ちいいなあ)
(心が軽くなってきたよ)
(中心に近づくと、熱くなるはずだよな)
(体がないし、目もないから熱さが感じられないぞ)

 人々は異変を素直に受け入れた。
 このような事態を受け入れたくない人々も、巨大な力を受け入れざるを得なかった。

(パパ、家にペロちゃんを残して来ちゃったね)
(大丈夫だよ、灯りを点けておいたからね。きっと家族みんなの帰りを家で待ってくれているよ)
(そうかなあ。ペロも来ればいいのにね)
(ワン、ワン)
(あっ、ペロだよ、ペロの声がした)
(ワン!ワン!)
(ペロだ!)
(ペロは利口だな、ちゃんと飼い主の後を追いかけてきたんだな)

 中には、これまでの世界では顔を合わせなかった者同士が、ばったりと巡り会うこともあった。

(おい、お前は指名手配されていた強盗犯じゃないか)
(滅相もございません、あっしはただの病人でしてね)
(俺は気配でわかるんだよ、何年もお前の顔を頭に入れて、執念の塊になってお前を探してたんだからな)
(しょうがねえな。腰から下を切り落として、ひと足お先に意識だけでも逃げおおせたつもりだったが、万事休すか。あっしがやりました)
(しかしもう手錠もないし、警察もない。逮捕どころじゃないからな)
(やれやれ、ここまで逃げた甲斐があったってもんだ)

 唐突に、これまで言えなかった事実を告白する魂もあった。

(さっちゃん)
(なあに、お母さん)
(今まで黙ってたんだけどね、こんな世の中になっちゃってから言うのも何だけど)
(今さらもういいよ)
(さっちゃんはね、本当はね)
(何よもう)
(本当の、お母さんとお父さんが別にいるのよ)
(もう、そんなことくらい何となく知ってたからいいよ)
(さっちゃんは優しい子だからね)
(だって、お母さんの子供だもん)
(よかった、本当にさっちゃんはいい子。本当にごめんなさいね)
(あたしの方こそ、薄々は知ってたのにずっと知らないふりしてたし。ごめんねお母さん)
(まあまあ、そんな……)
(病気がちだったから、心配かけたよね)
(無我夢中で、一生懸命に育てましたよ)
(でもこうなっちゃうと、病気もないからいいよね)

 地表の様子はもちろんのこと、時間も場所も、もはや誰にも認識できなくなっていた。
 暗い地の底のずっと下を、大勢の人々の意識は落ちながら、下りながら、会話を交わしていた。

(実はだな)
(何だよ一体)
(俺は前々から、皆が完全に平等になるような、そんな世界に憧れていたんだ)
(おお、今は結構そんな感じだよな。財産がないし、貧富や能力の差も、年齢や性別の差もない。おまけに自由気ままで、病気の心配もない)

 何十億もの想念や思考は、下降するにつれて他の想いと結びつき、自他の区別を失いながら、互いを取り込みあい、融合を繰り返した。

(肉体から離れて、皆が解脱したようなものだろうか)
(そうだ、何か偉大なもののお導きなのかもしれないぞ)

 誰の善意も悪意も、好意も敵意も、愛も憎しみも、喜びも悲しみも、博識も無知も一緒になって混ざり合った。

(うわ、君はずいぶんと苦い認識でいたんだな。心が苦さでビリビリするよ)
(あなたって気取ってたけど、本当はかなり甘ちゃんだったのね。いま気づいたわ、意識が虫歯になりそうなくらいよ)
(まあいいや、もうみんな混ざっていて、どこまでが自分で、どこまでが他人だか分からない時間の方が多いからな。なるようになるだろう)
(それもそうよね。あたしも甘いのかしら、何だか眠くなってきたわ)

 甘い観測、苦い絶望、辛辣な批判、甘美な思い出。
 そのような感情や意識の味わいは、熱狂や熱意によって熱くなり、冷酷や冷淡によって冷やされた。
 混ざることによって平準化し、さらに落ちながら熟成の度を深めていった。

(今までずっと疑問に思ってきたんだけどさ)
(何をだよ)
(地球の生物は何のために進化したり、意識や感情を持ったり、争ったり繁殖したりしてるのかなって)
(そういえば意味わからないよな、青臭い疑問だけどな)
(こうやって皆の意識や考えや感情が、混ぜこぜになって合流するっていうのが最終的な目的だったのかもな)

 人類全ての意識が同化し、混じりあった結果、辛辣さや苦さよりも、楽天性や希望の持つ甘さの方が微妙に勝っていた。
 初恋の思い出の甘酸っぱさ、諦念の持つ気だるい甘さ、記憶を美化する懐古趣味の甘さ、自分自身への甘さなどが多く含まれていたため、最終的には甘みのある、まろやかな味として整っていった。

 無数の意識はお互いを喰い合い、
(うん、おいしい)
 取り込み、
(これはおいしい)
 味わい合った。
(おいしい)
(おいしい)
(おいしい)
 想念は、
(おいしい)
 やがて地球の中心部でまとまって、
(おいしい)
 という思いで、一つになった。
(おいしい)
 そして、数百年、
(おいしい)
 数千年の時が過ぎ、
(おいしい)
 さらに数万年、
(おいしい)
 数億年もの時を経て凝縮し、
(おいしい)
 結晶化し、
(おいしい)
 ぼんやりと、
(おいしい)
 幸せな光を放ち始めた。
(おいしい)
 そして、
(おいしい)
 いつまでも、  
(おいしい)
 宇宙の片隅で輝き続けた。
(おいしい)
(おいしい)
(おいしい)
 いつまでも、
(おいしい)
 いつまでも。