最近の大谷教

自己啓発本の傾向が、仏教の流れにそっくり」という意見を見かけた。


以前の自己啓発本:自分で努力して出世、成功する!

その後の自己啓発本願うだけで、出世や成功の夢はかなう!

 

これが仏教の場合、


小乗仏教:出家して修業を積んで悟りを啓く!

大乗仏教出家しなくても、念仏を唱えれば救われるよ!

 

何だかものすごくイージーな方向へ進んでいるような気がする。要するに怠け者から受けているだけに思えてきた。俗受けするだけの、大甘の理屈ではないか。

 

 

 

 

その点をはっきりさせるために「大谷翔平になりたい教」といった宗教を考えてみたい。


昔の大谷教:投打で活躍するためには、ピッチングとバッティングの猛練習が必要だ!

最近の大谷教:願っていれば、みんなが大谷翔平になれるよ!


いい加減だなあ。

しかし後者の方が絶対に受けそうだし、本当に21世紀の人類はこの程度でいいのだろうか。弱者救済というより、民衆の阿片ではないか。願っているうちに、間違いで火野正平にでもなった方が本人のためではないだろうか。

本当は痛いはず

平家物語」などの軍記ものを読んでいて、痛みに関する描写がないのは不思議に思われる。

考えてみると20世紀の戦争映画でも、戦死は描かれていても痛みはほとんど描かれていない。やっと「プライベート・ライアン」あたりから痛み止めのモルヒネや、死ぬ寸前の錯乱や痛み、苦しみ、諦めが生々しく描かれるようになったのではないか。

日本のやくざ映画の場合は指を詰めるシーンがあるので、見ている側も「これは痛い! 痛たたたた!」と共感する。しかし、それ以外の外傷にはさほど痛さを感じない。むしろ突然の裏切りや仲間の無駄死にの方が「痛たたたた」と感じるくらいだ。

 

 

江戸時代あたりの時代物となると、武士が多少の切り傷で「痛い! 痛いでござる」なんて言わなくて当然である。何しろ常に切腹や打ち首の可能性があるので、こちらも「きっと覚悟が決まっているはず」と考えている。

しかし「平家物語」の頃は、まだ武士だか荒くれ者だか、犯罪者だか農民だか、はっきりしないような連中ばかりである。思想的にもあまり固まっていないはずで、学校がないので「人の痛みのわかる人になりたいです」なんて優等生ぶっている暇すらない。

16、17歳くらいの少年も登場するので、やはり重症なら「痛い!」と叫び、「痛いよう」と泣きわめく子もいたのではないだろうか。あるいは感覚が麻痺していて、ほとんど痛みは感じないのだろうか?

「犬神家の一族」と「カリオストロの城」

BSで先日「犬神家の一族」をやっていて、最後の半分ほどだけを観たが、これには引きこまれた。

自分は「八つ墓村」と「獄門島」と「悪魔の手毬唄」は角川映画で見ており、なぜか「犬神家」はリメイクも含めて見ていなかった。

何かにつけて偶然が多いし、謎解きでアッと驚かされるわけでもない。それでも確かに名作に特有の魅力が漲っているのであった。

 

 

さらに、音楽が大野雄二で時期も近いので、モロに「カリオストロの城」とテイストが重なっている。

ところどころ「あっ! カリ城っぽいメロディだ!」と思いながら見ると、楽しさ倍増である。

メロディも似ているが、ちょっとした心情表現的な短い音も、やや長めの曲も、そもそも楽器の編成がそっくりなのだ。

 

 

Xのコメントでは「見た後の感じも何となく似ている」と言っている人がいて、それもよくわかる。

暗い事件が終った後の独特の明るさとか、危機を脱した達成感と同時に湧いてくる名残り惜しさとか、そういった味わいがそっくりなのだった。