「クラシックやジャズを聴いてみたいけど、何をどう聴いていいのかわからない」
という悩みをときどき見かける。
おそらく、そういう人は学校の国語や音楽鑑賞のテストで植えつけられる「解釈」というものに毒されている被害者ではないかと思う。
彼らが普段聴いている音楽には、大抵「歌詞」があって、そこには「意味」「メッセージ」「教訓」「いいたいこと」「主張」「叫び」などが込められている。これを読み取ることが解釈であり音楽鑑賞であると思いこまされているような節がある。
例えば、ジョン・レノンは「イマジン」の歌詞でこういった主張をしている、その内容がこれこれだから素晴らしい、こういうメッセージ性があるから良いのである、ちゃんと物事を考えているので尊敬できる、視野が広いので立派だ、先見の明があって偉い、真実味があってリアルだ、だから名曲なのである、といったように。
歌詞を踏み台にして、理屈の筋を作って良いとか悪いとか、共感とか感動といった反応へと繋げる作業が彼ら流の音楽鑑賞である(他には生まれつき難病だったとか、若くして殺されたとか、そういったライフストーリー的なエピソードがつくと曲が一階級特進する)。
そのように慣らされているので、歌詞のない音楽が急に出てくると、いわば手がかりが消えた状態になるので、理解できない。理解できないとなると怒るか、そっぽを向くかである。遠目には権威がありそうで立派そうだが、好きにも嫌いにもなれないという距離を感じ続けて、やがてその距離が埋まる切っ掛けがないまま年をとってしまう。
だから君たちはダメなんですよ、この先もう一切、見込みがないですよ、という話にするつもりはなくて(私も歌詞を聴いて感動することもあるし)、それなら歌詞のない音楽を聴く時に何をイメージしたり考えたりしているのだろうか、ということをポツポツと考えてみたい。
しかし真面目に音楽の歴史を辿るとなると「絶対音楽」とか「標題音楽」の説明になってしまう。
そうではなくて、経験的に自分が歌詞のない音楽にどのように接して、どのように受け止めてきたのかを書いた方が良さそうである。
難しい話ではなくて、例えば子供の頃に「仔犬のワルツ」を聴いて、
「この曲は仔犬が自分の尻尾を追いかけてぐるぐる回っている様子を見たショパンが作曲しました」
という説明を読んで「なるほど」と納得したのが、歌詞のない音楽との出会いだったように記憶する。
つまり、歌詞がない音楽に親しむ契機として、何らかのイメージがほんの少しでもあれば、それを出発点にしてもっと抽象的な音楽を楽しめるようになるのだ。「雨だれ」「別れの曲」「月光」「田園」「愛の喜び」といった短いタイトルだけでも、あれば作品番号よりは手がかりになる。
その線で最も有名なのは、ディズニー映画の「ファンタジア」ではないかと思う。
この長編アニメ映画は全編がクラシック音楽で、画面や動きは常時、ほぼ音楽の絵解きになっている。なにしろ「花のワルツ」で花が踊り、「魔法使いの弟子」をミッキーマウスが演じるのである。
ウォルト・ディズニー・ファンタジア ― オリジナル・サウンドトラック デジタル新録音盤
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この曲を聴くのにはこのイメージでなければならない、と思い込むのは危険だが、イメージが無くても聴けるようになるための練習として、イメージつきの音楽に親しむのは、自転車に乗る前に補助輪つきで乗るようなものである。
歌詞のない音楽(特にクラシックやジャズ)という世界の広がりは海よりも深く、山よりも高く、終わりがない。私が「ファンタジア」を観たのは20歳よりもずっと前の年齢だったが、おかげで勉強や教養という意識すら持たずに楽しむことができた。今では音楽好きからも映画好きからもアニメ好きからも、さほど言及されない作品になってしまったようだが、観ておいて本当によかったと思う。
もし、今の20歳の若者が「ファンタジア」を通じて、歌詞のない音楽を聴く喜びを知るようになれば、結果としてその後の生涯全体のストレスをかなり軽減できる筈である。
今週のお題「20歳」