「なんなら」の跳梁

 

 

「ほぼ日」の冒頭に書いてある「糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの」、「今日のダーリン」を読んでいると、

 ・じぶんというものは、もっとも近いところにいて、
 話し合いのしやすい「自然」のひとつである。
 たくさんの食事をとると体重が増えるのかしら?
 などということを試してみたいときでも、
 だれかに頼むわけにもいかないけれど、
 じぶんでやってみることならやりやすい。
 睡眠時間を少なくしていると体調を崩すのかな?
 それもなんなら、じぶんでやってみたらわかるだろうさ。

 

何と、「なんなら」を発見してしまった。

特に探している訳でもないのに、ごく自然に目がそこに行ってしまう。私は糸井重里の大ファンというほどではないが、「ほぼ日」をほぼ毎日読むくらいの、週刊文春の「萬流コピー塾」の頃からの愛読者ではある。

 

すいません、ほぼ日の経営。

すいません、ほぼ日の経営。

 

 

しかし、悲しく残念なことだが本のタイトルの最後についている「。」のように、「なんなら」も後になると恥ずかしい表現になるようにしか思えない。

お年寄りは、新しげな表現を取り入れるのはたやすく出来ても、やめ時の判断がまったくできないために、いつまでも一時的に流行した表現を使い続けるのだという指摘を何かで読んで以来、その説が頭から離れない。誰がいつどこで言ったのか、それをさっぱり覚えていないのが不思議なくらいである。