「エセー」の感想と抜き書き

 

 

2004年頃に読んだ「エセー」の感想と抜き書きが出てきたので、読み返してみたらダイジェストのようで面白かった。

そのダイジェストをさらに整理して削ってみた。

これから以下の部分を読む人は「10分で読める!『エセー』の世界」のようなつもりで、サラッと読んでいただければ、この本の大まかな雰囲気がつかめると思う。

私は「エセー」を読み終えて以来「何か面白い本はないか」と訊かれる度に、必ず本書を勧めている。

引用部分は全て岩波文庫版(全六巻)から。

 

エセー〈第1〉 (1965年) (岩波文庫)

エセー〈第1〉 (1965年) (岩波文庫)

 

 

 

[85] エセー(一) モンテーニュ 岩波文庫 ¥ 完読 2004/04/03 10:41

 

去年の夏か秋頃に買ってあった本。

いわゆる古典的名作は、その作品世界に入るための敷居が高すぎて敬遠してしまうケースが多いが、この本は違っていた。

最初にいきなり、

 

「私は単純な、自然の、平常の、気取りや技巧のない自分を見てもらいたい。というのは、私が描く対象は私自身だからだ。ここには、(略)私の欠点や生れながらの姿がありのままに描かれてあるはずだ。」

 

とあって、この調子でずっと続く。

率直というか、飾り気がないというか。

本当に自分の頭で考えて、自分の声で何かを語っている文章に特有の真実味がある。

 

「(略)自分がいかに無力で、貧弱で、鈍重で、寝ぼけているかを思い知って、自分自身を憐れんだり、さげすんだりいたします。けれども私は、私の意見がしばしば光栄にも彼らと一致するということを、また、少なくとも、ずっとうしろのほうからですが、『まったくそのとおりだ』と言いながら彼らのあとについてゆくことを、得意に思っているのです。また、他の人たちにはないことですが、この著者たちと自分との間に雲泥の差があることをわきまえている点を得意に思ってもいるのです。そして、それにもかかわらず、私は自分のこんなに弱々しく低級な見解を、私が産み出したままの姿で、この比較によって明らかになった欠陥を塗りかえたり、繕ったりせずに、世間に公表するのです。」

 

「哲学を子供たちに近よりにくいもの、しかめっ面の、眉をよせた、恐ろしい顔つきに描いてみせるのは非常な誤りです。いったい誰がこの誤った、蒼白い、いやな仮面をかぶせたのでしょうか。実際はこれほど愉快で、快活で、陽気なもの、いや、ふざけ好きと言ってもいいものはありません。哲学は楽しい、お祭気分しか説きません。悲しい、寒々とした顔つきをするのは、哲学がそこに宿っていない証拠です。」

 

「プラトンの中で誰かが言っております。『どうか哲学することがけっしてたくさんのものを覚えて学芸を論ずることではありませんように』と。」

 

「もしも誰かがお子様を三段論法みたいな七面倒な詭弁で攻め立て、『塩豚を食えば水が飲みたくなる。水を飲めば渇きがとまる。ゆえに塩豚は渇きをとめる』といってきたらどうすればよいでしょうか。そんなものは鼻であしらってやるがよろしい。返事をするより鼻であしらうほうが賢いのです。」

 

「言葉においても、珍しい文句や、人のあまり知らない単語を探しまわるのは子供じみた、衒学的な野心からくるものです。私は何とかしてパリの市場で用いられる言葉だけを使ってすますようにしたいものだと思います。」


「味わったり、消化できる情熱はすべて平凡なものでしかない。」


「心は激してくると、何ものかに働きかけずにはいないで、自分の信念に反してまで、偽りの、架空の対象をでっち上げて、自分を欺くのである。」

 

「われわれはわが身に降りかかる不幸については、どんな理由でもでっちあげる。」

 

「どんなつまらぬ材料でも、この寄せ集めの書物の中に入れるのに値しないものはない。」

 

「私はできれば健康で愉快な人たちとだけ交際したいと思っている。他人の苦しむのを見るのは肉体的につらい。私の感覚はしばしば他人の感覚を横取りした。絶えず咳をする人は私の肺と喉をむずむずさせる。」

 

「われわれの意志が全能であることの証拠として、聖アウグスティヌスは、自分のお尻に好きなだけ放屁を命じることのできる人を見たことがあると言い、彼の注釈者のヴィヴェスはさらに徹底して、当時のある人が詩の吟誦に合わせて放屁できたことを例に挙げているが、このことはこの器官の完全な服従を推定せしめるものではない。なぜなら、普通このように無遠慮に音を出す器官はないからである。その上、私は非常に騒々しくて手におえないお尻を知っているが、これはその主人を40年もの間、ひっきりなしに放屁させてついに死にいたらしめた。」

 

とりあえず一巻の中のベスト3は、

「習慣について」「想像力について」「食人種について」。

「習慣について」は色々な国の習慣を列挙している部分が面白いが、とてもここには書ききれない。

 

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[88] エセー(二) モンテーニュ 岩波文庫 ¥ 完読 2004/04/06 17:54

 

全部で6巻あるので、全部読みきれるかなと思っていたものの、寝る前に少しだけ読むつもりでページを開くとつい夢中になってしまい、かなり進む。

この調子でいくと今月中に全て読むことができるかもしれない。

実に面白いし、唸らされるし、生き生きしていて、エピソードはみな愉快。

 

「世のあらゆる迷妄のうちで、もっとも広くゆきわたっているのは名声と栄誉に対する関心である。」

 

「それを攻撃する人たちでさえ、それについて書いた書物の表紙に自分の名前をかかげようとし、栄光を軽蔑したことによって自分の栄光を求めようとする。」

 

「われわれは、何を認識し享受しようと、それに満足した気になれずに、未来のもの、未知のものを追いかける。現にあるものがわれわれを満足させないからである。だが、私の考えでは、現にあるものがわれわれを満足させる力をもたないからではなくて、われわれの把握の仕方が病的で狂っているからである。」

 

「無知には知識の前にある初歩的な無知と、もう一つ、知識のあとからくる博学の無知とがある。」

 

「私は自分について、絶対的に、単一に、確定的に、混乱や混合なしに、一言で、言えることは何もない。」

 

「拷問は危険な発明である。これは真実を試すよりも、むしろ忍耐を試すためのものであるように思われる。これに堪えることのできる者は真実を隠すし、堪えることのできない者も、やはり真実を隠す。実際、苦痛は、本当のことを言わせるよりも、むしろ、ありもしないことを無理矢理に言わせるのではないだろうか。」

 

「自分を実際より低く言うことは馬鹿であって、謙遜ではない。」

 

「私は本を読みながら困難にぶつかっても、いつまでも考えてはいない。一突き、二突き当たってみて、あとはそのままほっておく。そこに立ちつくしてみても、ぼんやりと時間を失うだけである。私は早呑込みのほうだからだ。一ぺん攻めてみてわからないことは、固執すればするほどわからなくなる。私は楽しみながらでなければ、何一つしない。」

 

「生れつきの温厚と寛大さから、侮辱を受けても平気でいられる人の行為は大いに美しく称賛に値するであろう。しかし、恨み骨髄に徹しながら、理性の武器を執って、狂おしいばかりの復讐の念に立ち向かい、激しい葛藤ののちにこれを抑えつける人の行為は、疑いもなく、はるかに立派であろう。前者はよい行為であり、後者は徳のある行為であろう。」

 

「われわれは神を、善良、強大、寛大、公正と呼ぶが、有徳とは呼ばない。神の行為はすべてが自然で、努力を伴わないからである。」

 

「私は生れつき、大部分の不徳を忌み嫌うようにできている。アンティステネスが最良の勉強は何かと問われて、『覚えた悪を捨てること』と答えたのもこの考えに基づいているように思われる。」

 

「アリティッポスは快楽と富に都合のよい、あまりに、大胆な説を樹てたためにあらゆる哲学者の非難を招いた。けれども彼の品行はどうかというと、僭主ディオニュシオスから三人の美女を示されて、どれでも好きなのを選べと言われて、『私は三人全部が欲しい。あのパリスは三人の中から一人だけを選んだためにまずいことになったから』と答えたが、三人を自分の家に連れてきたあとで、一指も触れずに送り返した。また、下男がお金をたくさん背負ってうんうん言いながらついて来るのを見て、そんなに重荷になるものは空けて捨ててしまえと命じた。」

 

「エピクロスも、不敬で惰弱な学説を説いたが、実生活はきわめて敬虔で勤勉だった。彼は友人の一人に手紙をやって、自分はいまビスケットと水ばかりで暮らしているが、ちょっと贅沢な食事がしたくなったときのために、チーズを少し送ってくれと言っている。」

 

「私は、あまりにも子供っぽく優しい性格のために、私の犬に時でもないときにじゃれつかれたり愛撫を求められたりするとことわり切れなくなるが、それを人に言うのをちっとも恥ずかしいと思わない。」

 

特に面白かったのは「実習について」「書物について」「残酷について」。

 

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[94] エセー(三) モンテーニュ 岩波文庫 ¥ 完読 2004/04/28 09:03

 

岩波文庫版の全6冊のうち、3巻は「レーモン・スポンの弁護」の章のみ。

他の巻はどれも「00について」という短い文章が数十章収録されているのに比べると異色の巻である。

といっても中身は動物おもしろエピソード集だったり、哲学者の言うことはバラバラで困るよね~という実例集だったり、自分の感覚というのも当てにならないね~という話だったりするので、さほど違わない。

ビートルズでいうと「サージェント・ペパーズ~」みたいなもので、統一感があるといえばあるし、ないといえばない。笑い話のようなエピソードもあれば、厳粛な気持にさせられる部分もありといったところ。

調べてみるとこの本が書かれた頃、日本では秀吉が千利休とお茶を立てていたりする。そう考えると随分大昔のようだが、昨日書かれた文章のような生命感がある。

 

「私が猫と戯れているとき、ひょっとすると猫のほうが、私を相手に遊んでいるのではないだろうか。」

 

「象が自分や仲間の体からばかりでなく、主人の体からも、戦闘中に突き刺さった投げ槍を抜き、しかもわれわれにもできないほどにあんなに痛くなく巧みに抜き取ったりするのを見るとき、どうしてこれをも同じように学問と知識だと言わないのだろうか。」

 

「スーサの国王の庭園で撤水用の桶をくくりつけた大きな水汲み車を廻すために使われていた牛は、それぞれ日に百回その車を廻すことを命じられていたが、この数に慣れ切っていて、けっして一回でも多く廻すことをせずに、仕事が終るとぴたりと足を止めた。われわれ人間は数字を百まで数えられないうちに少年期に達してしまう。」

 

「また、象にはいくらか宗教心があると言える。なぜなら象は一日のある時刻に、沐浴して身を清めたあとで、われわれが腕をさし上げるように鼻を高く上げ、昇る朝日をじっと見つめて、教えられたり命ぜられたりせずに、自分から、長い間瞑想にふけって立ちつくしているからである。」

 

「気位の高さについては、インドからアレクサンドロス大王に送られた大きな犬の行為よりも明らかな例を示すのはむずかしい。この犬には、格闘の相手としてまず鹿が出され、ついで猪と熊が出されたが、彼はそれらに眼もくれず、自分の場所から動こうともしなかった。だが獅子が現れたのを見るとすぐにすっくと立ち上がり、これこそ自分と戦うにふさわしい唯一の獣であるという気持をはっきりと現わした。」

 

「私はあのミレトスの少女を痛快に思う。彼女は、哲学者のタレスがしじゅう天空を見つめることにかまけて、常に目を上にばかり向けているのを見て、彼の通り道に何かをおいてつまづかせて、まず自分の足もとにあるものに用心してから雲の上にあるものに頭を向けるべきだと思い知らせた。」

 

「われわれは、何を教えられようと、何を学ぼうと、与えるのも受けるのも人間であり、差し出すのも受け取るのも人間の手であることをいつも思い出さねばなるまい。」

 

「私はある良家の紳士で、生れつき盲の、少なくとも視覚とは何であるかを知らないくらい幼いときから盲の人に会ったことがある。彼は自分に欠けているものをまったく理解していないために、われわれと同じように視覚に特有な言葉を用い、それをまったく独特な方法で用いていた。(略)人類もまた、何かの感覚を欠いているためにこれと同じような愚かなことをしているのかも知れない。」

 

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[102] エセー(四) モンテーニュ 岩波文庫 ¥ 完読 2004/05/08 16:58

 

岩波文庫版の4巻目は「自惚れについて」が五十ページほどあって長いので、他の章をちらちら読んでいるうちにいつのまにか読了。

他の巻と同様に、数百年前の人が書いたと思えない生々しい告白と卓見の数々に唸る。

 

「私は他人にどう見えるかということよりも、むしろ私自身の中でどんな人間であるかを気にする。借りものによってではなく、私自身によって富みたいと思う。」

 

「私が私の生涯から得たいと思う栄誉のすべては、一生を静かに生きたということである。(略)哲学は万人に向く平安の方法を何一つ見いだすことができなかったから、各人は自分でそれを探さなければならない。」

 

「私はいつも<悲しみの少ない者ほどはでに泣く>という名句を思い出す。」

 

「みじめなズボンをはいて立派な書物を書いている人は、私からすれば、まずズボンを作るべきでしょう。」

 

「私は、阿諛者や偽装家であるよりは、むしろうるさ型の不躾な人間でありたい。」

 

とりわけ「自惚れについて」の中で、

 

「私が通俗の、より陽気な内容をとるのは、世間の人々のように、堅苦しい沈鬱な賢明さを好まない自分の生れつきに従うためであり、私を喜ばすため」

 

なんていう部分は他人と思えない。さらに、

 

「私は、性格的にも、作為的にも、極端にものぐさで、極端に自由である。」

 

「私の心はまったく気ままに、自己流にふるまうのに慣れている。現在にいたるまで外から支配者も主人も強いられたことがないから、好きなだけ先へ、勝手な足どりで進んで来た。」

 

と続いて、自分の記憶力がいかに乏しいかという話題になると、ますます他人と思えない。

 

「私は一度ならず、三時間前に、人に与えた、あるいは人から受けた合言葉を忘れたことがある。また、(略)財布をどこに隠したか忘れたことがある。」

 

「また、こんなに忘れることが上手だから、自分で書いたり作ったりしたものも、他のものと同じように忘れている。他人からも終始『エセー』を引用して話しかけられるが、それに気がつかない。」

 

ほとんどサザエさんである。さらに記憶力がないどころか、頭の悪さまで告白してくれる。

 

「どんなにやさしい謎を出してやっても解けたためしがない。(略)たとえば将棋やカルタや碁のようなものはほんの初歩しか知らない。(略)私の精神くらい、卑近な事物や、知らなければ恥ずかしいような事柄について、無知で無能なものはどこにもない。」

 

その実例として、数の勘定、流通している貨幣、穀類の区別、家具の名前、子供でも知っている農業の原理、商品の知識、果物、酒、食物の区別、鳥の飼い方、馬や犬の治療などについて無知であることが述べられる。凄すぎてこの辺ちょっと迫力がある。

さらに、

 

「つい一ヶ月前に、パンを焼くのにパン種が使われることを、酒を発酵させるとはどういうことかを、知らずにいることをみんなに知られてしまった。」

 

とある。しかもその後で、

 

「ありのままの自分を知らせているなら、私は目的を達したわけである。だからこんな卑しい、つまらぬ事柄をあえて筆にすることも弁解はしない。主題が下らないから仕方がないのである。咎めたければ私の企てを咎めるがよい。」

 

と、開き直っている。ここまで来ると実に天晴れな態度と言うほかない。

さらに「判断」も放棄するようなことが書かれてあって、

 

「私のふらふらした判断は、たいていの場合にどちらかにも等しく揺れ動くので、いっそのこと籤とサイコロの決定に任せたくなるくらいである。」

 

とある。最近そういう小説が紹介されているのを読んだばかりで、ちょっと驚いた。聖書にもそういう例があるらしく、「いまさらながら人間の無力さに注目する。」などと他人事のように言っているが、もう少し後になると少々厭世的になってきて、

 

「おそらく、私が絶えず昔の人々の考え方につき合っているためか、そして過去の豊かな精神を思い描くことによって、他人にも自分にも嫌気がさすためか、それともまた、本当は、凡庸なものしか生みださない時代に生きているためか、それはともかくとして、私は大きな称賛に値するものを何も知らない。それに私には、判断をくだせるほど親しくつき合っている相手もほとんどない。」

 

てなことを言い出す。

何となく読んでいる方まで暗い気分になってしまうが、最後の方で何人かの立派な人物について触れ、そのまた最後の最後には「マリ・ド・グルネ・ル・ジャール嬢」なる女性の話が出てくる。

 

「彼女は私から父親以上の愛情で愛され、私の隠遁と孤独の中に私自身のもっともよい部分の一つとして大事にされている。私はこの世で彼女のことしか考えない。」

 

「彼女が女の身で、この時代に、あれほどの若さで、あの地方でただ一人で、私の最初の『エセー』に下した判断の的確なことと、この『エセー』を通じて私を尊敬し、私に会うずっと前から私を愛し、私と知り合うことを熱望していたことは、大いに考慮すべき事柄である。」

 

なんと、あれだけ言っておきながらファンの女の子と仲良くやっているのである。

最後がおのろけコーナーかよ!と言いたくなる。

ちょっとウディ・アレンのことを連想してしまったが、そういう部分も含めて面白い。

 

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[139] エセー(五) モンテーニュ 岩波文庫 ¥ 完読 2004/07/01 23:44

 

モンテーニュが何十年もかけて書いた本をたった数ヶ月で読んでしまっていいのか、と思いながらも6巻のうち5巻まで読み終えた。

他の巻と同様、率直で平易で読み出すとすぐその飾り気のなさに引き込まれる。

 

「私はしばしば見せかけの、人為的な率直さ用いられるのを見たが、たいていの場合成功しなかった。これはアイソポスの驢馬の話を思わせる。この驢馬は、犬の向こうを張って、ひどくはしゃいで主人の肩に両足をかけたが、犬のほうは同じことをしてうんと可愛がられたのに、その二倍も棒でなぐられた。」

 

「他の人々は精神を高くかかげようとつとめるが、私は広く横たえようとつとめる。」

 

「私は若い頃には人に見せびらかすために勉強した。その後は少し賢くなるために勉強した。いまは楽しみのために勉強している。けっして何かを獲得するためではない。」

 

「私はプラトンが、人の気持ちの気さくか気むずかしいかは、魂の善し悪しに大いに影響する、と言ったことに心から賛成する。」

 

「私は快活で愛想のよい賢さは好きだが、いかめしい顔つきはどれも信用しないから、謹厳で厳粛な行き方を敬遠する。」

 

「私は私の好きな題材から手をつけてゆこう。すべての問題は互いに関連しているからである。」

 

「なぜ笑いながら真理を言ってはいけないのか。」

 

「残酷の恐ろしさは、いかなる寛容のお手本にもまして、私を寛容へと駆り立てる。」

 

「現代は、逆向きになって、手本に一致することよりも逆らうことによって、類似よりも相違によって、自らを改良するしかない時代である。」

 

「学問は鈍感な魂に出会うと、生の、不消化の塊となって、これをますます鈍重にさせ窒息させる。」

 

「私は毎日、いろいろの著者の著作を読みふけっているが、彼らの知識は問題にしない。内容ではなく、話し方を求めるからである。」

 

「われわれは、ねじれた片輪の肉体に会うと平気でいられるのに、出来損ないの精神に会うと怒らずにいられないのはなぜだろうか。この誤った苛酷さは、相手の欠陥のせいよりもこれを判断するもののせいである。次のプラトンの言葉を口ずさもうではないか。『私があるものを不健全だと思うのは、私自身が不健全だからではないか。』」

 

「一般大衆の評価が正しく的に当たることはほとんどない。現代でも、私の誤りでなければ、もっとも下らない書物がもっとも世間の評判を得ている。」

 

「行為は何か自由の輝きをもたないと、優美でもないし、名誉でもない。」

 

「もしも、恋愛で第一に大事なことは何かと聞かれたら、私は、好機をとらえることだと答えるだろう。第二も同じ、第三もやはりそれだ。」

 

「子どものない境遇にもそれなりの幸福はある。子供というものは、それほど強く欲するのに値しないものの一つである。とくに子供を立派に育てることがきわめてむずかしい現代ではそうである。」

 

「ばかを相手に本気で議論することはできない。こういう無茶な先生の手にかかっては、私の判断ばかりでなく、良心までが駄目になる。」