人生に影響を与えた一冊

 

 

大抵の本は、読んですぐ「あらすじ」「要約」としてまとめることができる程度のものでしかないし、教訓やポイントを整理できるような本から受けた影響など多寡が知れている。

ビリヤードの球のように、あっちから本が来て、衝突して影響を受けた分だけそっちに飛んでいくというような、単純な影響のされ方を羨ましがる必要などない。あの斉藤由貴だって「卒業式でピーピーギャーギャー泣かないと、冷たい人と言われそう。でももっと悲しい瞬間に涙は取っておきたいの」と主張していたではないか。「影響を受けた」などと軽々に思えず、他人に説明もできないような読書経験を積んだ方がよい。

私にとって稲垣足穂の作品の、特に半自伝的な路線の短篇小説群は、影響どころかいつまで経っても「読んだ」という感触や手応えすら得ることができない、時々読み返してもまた同じような印象を持つばかりの、どうにも扱いに困る難物である。

 

一千一秒物語―稲垣足穂コレクション〈1〉 (ちくま文庫)

一千一秒物語―稲垣足穂コレクション〈1〉 (ちくま文庫)

 

 

最初に読んだのは「きらきら草子」で、起承転結に乏しく、急に始まって唐突に終るような、随筆なのか私小説なのかフィクションなのかすらよく分からない言葉の剥製という印象だった。

読者を楽しませるために作者がサービスするどころか、そもそも作者が読者の方すら向いていないようだし、かと言って退屈という訳ではなくて、強いて言うなら起承転結や序破急がゴチャゴチャになっていて、しかもそれが当然であると強く確信しているような小説であった。

そして常に文章の隙間からは乾いた、涼しい、奇麗な風が吹いている。

 

弥勒 (河出文庫)

弥勒 (河出文庫)

 

 

「弥勒」「地球」「白昼見」他いずれも同様で、きっと大人になればそれなりに解読するためのコードが手に入って、すらすら読み解けるのではと期待していたものだが、実際に年をとってみると何故かますます理解できる可能性が減っているようで、距離感で言うなら確実に遠ざかっている。

足穂の小説は要約も矮小化もできないため、ドラマ化や映画化は勿論、パロディやオマージュといった二次的な創作の対象になりにくい。江戸川乱歩が何度も映画化、ドラマ化、パロディ化され、後世の作家に変奏され続けて一大市場を作っているのとは対照的である。

おいそれと「影響を受けました」などとは口にできず、説明もできない何かが稲垣足穂の文章には宿っており、その何かは「一作」とか「一冊」といった単位をサラリと無化する性質も持っている。足穂の作品と作品群の関係は、星と星座の関係のようなもので、線で繋ごうと思えばどのような形にもできるだろうし、思わなければ形にすらなららない。

 

といったことを考えつつ講談社学術文庫の「モンテーニュ よく生き、よく死ぬために」を読んでいたら、やはり何だか説明できない種類の感銘を受けたという箇所があったので、ついでに紹介してみたい。

 

 

世界は、永遠の動揺にほかならない。そこではすべてのものが絶えず動いている。大地も、コーカサスの岩山も、エジプトのピラミッドも、全体の動揺とそれ自身の動揺で動いている。恒常でさえも、より緩慢な動揺にすぎない。私は自分の対象〔かれ自身を指す〕を固定することができない。それは生まれながらにして酩酊していて、朦朧と、千鳥足で歩む。私はいま、この地点で、自分という対象を相手にしている瞬間に、それをあるがままに捉える。私は存在を描かない。推移を描く。それも一年ごとの推移でもなく、民衆がいう七年ごとの推移でもなく、一日ごとの、一分ごとの推移を描く。

 

 

筆者の保苅瑞穂は「エセー」第三巻第二章の「後悔することについて」から上記の文章を引いた後で、以下のように述べている。

 

 

わたしがモンテーニュについて書き始めた理由の一端は、この一節にあったと言っていいかも知れない。それほどこの文章は、読むたびに想像力を掻き立て、説明がつかない言葉の力でわたしを魅了する。その秘密を解きたいと思うのだが、どう説明して見ても、魅力の秘密を掴むことができない。

 

 

 

モンテーニュ よく生き、よく死ぬために (講談社学術文庫)

モンテーニュ よく生き、よく死ぬために (講談社学術文庫)

 

 

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