どうもここ数日の著作権をめぐる論争はかなりヒートアップしている模様で、ついつい当ブログの「ブログに関するメモ:五十音順(な~ほ) 」の「ひ」の項を読み返したくなってしまった方も多いのではないだろうか?
ひ:ヒートアップ:ヒートアップしてはいけないのと同じくらい、悲観してはならない。
ところで、ネットバッシングや炎上騒動を見かけると、山本夏彦の名言・箴言の数々を思い出す。
しかし、ネットで騒ぐのが生き甲斐であるような人たちは山本夏彦など知らないし、もともと山本夏彦を知っているような人たちにとってネット界の騒動など無きに等しい。
そこで今回は、何かのヒントになることを願って、
「えっ!知らないの!?ネット社会を歩くために知っておきたいコラムニスト山本夏彦翁とっておきの名言集!」
と題してお送りしたかったのだが、あまりに恥ずかしい題名なので、
「書くことなし日記 山本夏彦編」
に抑えておいた。
「人は言論の是非より、それを言う人数の多寡に左右される」
「言論の自由は、大勢と同じことを言う自由であり、罵る自由であり、罵らない者を村八分にする自由である。これが言論の自由なら、これまであったし、これからもあるだろう」
「衣食足ると偽善を欲する」
「人は分かって自分に不都合なことなら、断じて分かろうとしない」
「同類は何百人集まっても一人である」
「正直者は馬鹿をみるという言葉がきらいだ。ほとんど憎んでいる。まるで、自分は正直そのものだと言わぬばかりである。この言葉には、自分は被害者で潔白だという響きがある。悪は自分の外部にあって、内部にないという自信がある」
「そこにないものを見ないと、世の中のことは分らない。それというのも、ものはそこにあるものより、ないものから成ることが多いからである。」
「新しい取巻きに取巻かれて得意にならない人はいない。十年二十年取巻かれていれば別人になる。初めて推してくれた人の前でだけ、もとの無名にかえるのは困難である。」
「ひとはどこまで無実か――悪事が露見するまで無実である。」
「『告白』というものは多くまゆつばである。自慢話の一種ではないかと私はみている。」
「人はその言論の是非より、それを言う人数の多寡に左右される。」
「善良というものは、たまらぬものだ。殺せといえば、殺すものだ。」
「他を難ずる人は、自分のことは棚にあげているのだから、その言葉には痛切の響きがない。むしろ景気のいい響きがあるから、聞くものは同じく自分を棚にあげて。そこに八百長による和気の如きものが生じるのである。八百長だからそれらはたいていあとで痛烈だとほめられる。だから私は痛烈だという言葉を好まない。痛烈といわれるもので浅薄でないものはまれである。」
「自信はしばしば暗愚に立脚している。」
「作り話が実話にきこえるのは、そのなかに本当の部分があって、それがうその部分を覆うからである。」
「事実があるから報道があるのではない。報道があるから事実があるのだ。」
「嫉妬は正義の仮面をかぶってやってくる」
「欲張って損した者を、欲張らない者は笑う資格がある。笑って、自分の内部にある欲張り根性を封じるのである。それは、すんでのことで、躍りでて同じことをしようとした根性である」
「汚職は国を滅ぼさないが、正義は国を滅ぼす」
「馬鹿は百人集まると、百倍馬鹿になる」
愚生もバイラルメディアの悪行三昧が許されてよいとは思っていないのだが、著作権の壁を「うんと高くすべき」か「低くなるのもやむなし」かの二択であるとしたら、既に後者に移行しつつある趨勢はどうにもならないと考えている。
また、イケダ氏が言いかけているところの「正義」に関する見解は、おそらく山本夏彦と同質のものであろう。
これは直感的なものなのでどこまで言語化できるかわかりませんが(別途記事にしてみます)、自分の身の丈を超えた正義についてコミットするのは、歴史的に見ても危険だと思うんですよね。戦争とか虐殺は、身の丈を超えた正義を実践しようとするから起こると考えます。自分が当事者ではない場合に正義を振り回す際には、慎重になる必要があるかと。
しかしそれでも、絶対にイケダハヤトだけは許せない!といきり立つ向きには、以下の名言を捧げたい。
「才能というものは、のぼり坂が三年、のぼりつめて三年、くだり坂が三年、〆て十年続けばいいほう」
以上は「何用あって月世界へ」からの引用である。
他にも手に入りやすい書籍として以下のようなものがある。
意地悪は死なず 夏彦・七平対談―山本夏彦とその時代〈2〉 (山本夏彦とその時代 2)
- 作者: 山本夏彦,山本七平
- 出版社/メーカー: ワック
- 発売日: 2011/01
- メディア: 単行本
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