政治について考えるのは面倒くさい。
なぜかというと、政治について考えるには、広く社会全体を知った上で、この国の未来と過去、それに経済、歴史、労働、教育、子育て、文化だの科学だのスポーツだの、そういった諸々を考える必要があるし。
その上さらに外交問題やら他国の思惑やら、拉致問題やら軍備やら貿易やら企業やら、働き方やら反社会的勢力やら移民やら原発やら、ヘイトスピーチや差別や言論の自由や表現の自由や、マスコミや報道や出版や、とにかくうんぬんかんぬんについて、あれもこれも知らないといけないみたいで。
とにかくあらゆるテーマに「政治」はつながっている。
しかも考えても考えても、全員にとってよい政治という結論は出ないみたいだし。皆が自分の立場から「金をよこせ」と叫んでいるだけのようだし、何か言うとすぐ難癖をつけられて面倒だし、格好悪いし疲れるし、考えるだけ時間も労力も損するような。皆がそう考えて当然だ、と思える。
これは構造的にそうなっているように思えてきた。
たとえば政治についてうんと勉強していて、うんと詳しいAさんも一票である一方で、まったく何も考えてないBさんも一票。
これは虚しい。悪平等のように思える。
ベーシックインカムを導入すると、よく働く人もそうでない人も同じことになるので、皆の勤労意欲が削がれるという意見があった(今でもある)。この見方は「ひとり一票」という状態にもそのまま当てはまるのではないか。だから投票率が低くなっているのだ。
それなら政治学科を出ているような人は百票くらい持っていてもいいのか。いいような気がしてきた。
そもそも政治家を選ぶということは、代表を選ぶということなのだから、選挙の時点でもう自分の票を託す人を選んでも別にいいのではないか。近所の票をまとめて、誰それさんのご長男に二百票ほどお任せしたい、という風に。
そのご長男は何とか大学の国際政治学部政治学科卒なので、あちこちから託されて、合計二千二百票くらい持っているとかね。
しかしこれはダメっぽい。こうなるとますます投票行為が汚くなる。有力な、多くの票を握っている有権者は、あっという間に裏金と利益誘導と接待漬けになってしまう。簡単に授受できるとなると売買も簡単になるので、そうなると金持ちが政治を支配するだけだ。
しかしこのままひとり一票の原則でやっていても、もともと半数近くは棄権するくらいなので、よほど実態と合わないのだろう。