志ん朝のCDの解説を読んでいたら、昨日聴いた小さんの「おせつ徳三郎」の後半にあたる部分が「刀屋」なのであると知って驚いた。
「刀屋」なら去年聴いたが、急に後編なのだと知らされても、何がどうつながっているのかよく分からない。
別に分からなくても大した問題にならないから前半と後半で分かれているのだろうが、ちょっと落ち着かないので確認のためにまた「刀屋」を借りてきた。
「花見小僧(小さん)」=「おせつ徳三郎の前編」
「刀屋(志ん朝)」=「おせつ徳三郎の後編」
となっている。明日以降、また「刀屋」を聴き直して、その後でまた「花見小僧」に戻ってみようかと思う。ややこしいから自分で一枚のCDにまとめようかと思っている。
それからツタヤで「四枚で千円」というキャンペーンをやっているが、二枚組のCDは二枚に数えるのかとばかり思っていたら、一枚にカウントするというので、エッと思った。
それから菊地成孔の映画評論集を読んでいると、急に志ん朝が談志に言った言葉(兄さんは、普通に噺をやるのができないだけじゃないですかい)なんていうのが出てきてドギマギした。
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志ん朝「刀屋」
志ん朝「柳田格之進」
今回から日記の最初に演者と演目を書くことにする。
こうするとウルトラマンのオープニングで、
「何とか怪獣 何とかドン登場」
という風に名前が出るのと同じで、読む前からややワクワクドキドキするのではないだろうか。
さてまず「刀屋」は、以前にも一度聴いたものの、前編とのつながりがよく理解できなかったので聴き直した。
前編の「花見小僧」は、おせつと徳三郎の仲を怪しむ店の主人が小僧から色々と聞きだして、徳三郎を首にするまでの話。
これに続く「刀屋」はちょっと時間が飛んでいて、おせつが別の男と結婚するという話を聞いた徳三郎が刀屋に行って……という話。
通して聞いて初めて分かったのは、前編にはおせつも徳三郎も出てこず、噂の中でだけの存在だということ。後編はほとんど徳三郎と刀屋の主人の会話中心なので、確かに分けても不思議ではない。
解説には「通してやっても意味が無い」とあるが、個人的には通しでやって、別の人が前半と後半を分けてやった方がいいように思う。
ただ、おせつが出てくると「おおっ」と思うが、その後ですぐ終わってしまうし、サゲがあまりよくない。ねずっちにでも相談して、何か上手いサゲを開発するべきだ。
次にちくま文庫の「志ん朝の落語」で「柳田格之進」を読んだ。これは色々と「文七元結」に似た面の多い、試作品とでもいった噺のようであった。
大金が消えてしまい、金の工面をせざるを得なくなる→娘が身を売る、という展開。
さあ一体どうなる?という所からの「真相」がちょっと苦しいし、欠点が目立ってしまう噺だった。
この噺の犯人役は、番頭でないといけないように思うし、無理に何か理由をつけてでも悪役に仕立て上げるべきではないかとすら思う。
どうも消化不良気味になる噺だった。最初の方の囲碁友達になる辺りまではすごく良かっただけに残念。
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春風亭昇太「雑俳」
春風亭昇太「力士の春」
春風亭昇太「おやじの王国」
今日は「春風亭昇太2 26周年記念落語会 オレまつり」というCDをツタヤで借りたものを聴いた。
「2008年下北沢本多劇場で行われた、春風亭昇太の記念公演アルバム。
26年の高座人生を振り返るトークを交えて一夜で六席を語った作品。」
と宣伝文句にある。
今日はディスク1だけを聴いたので、感想をメモしておく。
最初は「雑俳」で、これは師匠の柳昇から習った噺が二つあって「牛ほめ」とどっちにしようかと悩んでこっちにするという形で話し始めた。
内容はダジャレが多く、小中高校生のテストの誤答例、珍回答集のようなものを見慣れてしまっていると、落語の中での勘違い、取り違えというものはさほど強烈な面白さを持たなくなってくるのではないかと思った。
しかし「春雨」というお題を与えられて詠んだ俳句が「船底をガリガリ齧る春の鮫」というのは下らなくていい。
次は「力士の春」。
これは別のCDで聴いたことがある。その時も思ったのだが、そもそも相撲に興味を持てないのでその分、面白さが分からない部分もある。しかし本人は小学校や中学校でこれをやるとバカ受けなんだと自賛していた。
確かに相撲のことが分からなくても、学校の用語を相撲用語に置き換える部分だけでも面白い。
最後は「おやじの王国」。
これは妻や娘に疎まれているお父さんが、「おやじの王国」という、一種の天国のような場所に招かれて、楽しい思いをするというもの。
これは前半の妻や娘にいじめられている部分が、かえって今となっては古臭い感じがしてしまい損をしている。
「昔ほど尊敬されない父親」「権威を失った父親」「ダメ親父」という父親観がもう古いし、かといって古きよき威厳を持った、威張った父親像にも共感しにくい。
CDではカットされている部分もあるようなので、何とも言いにくいが、これはもっと長くできる噺のように思える。
合い間に入るトークの部分で、新作落語をやるのがいかに大変か、と嘆いているところは大いに共感した。
「古典落語なんて、ただ与えられた事を覚えて言うだけじゃないか!」と憤慨するが、古典は古典でそのままやる訳ではなく、見直すタイプの人は細かく改変しているので、どっちの立場も分かる気がする。
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春風亭昇太「花粉寿司」
春風亭昇太「ストレスの海」
春風亭昇太「ネタの部屋」
春風亭昇太「人生が二度あれば」
前回の続きでディスク2を聴いた。
これらは皆、この人の作った新作落語の中では傑作中の傑作、どこでもバカ受け、鉄板、幾ら稼いだか分からないというくらいのものらしいので期待して聴いたのだが、何だか今イチな感じだった。
花粉寿司は「花粉症」、ストレスの海は「ストレス」、人生が~は「タイムスリップ」と、古典落語にはない要素が入っているが、そこがかえっていかにも新作落語臭い感じだった。
それからこの人の新作落語に出てくる奥さんは皆、がみがみキーキー文句を言ってばかりなので、可笑しいという感覚より「やかましい、うるさい、鬱陶しい」という思いの方を強く感じてしまう。
ちょっと一本調子なので、もっと別の女性像が欲しいところだと思っていたところで、たまたま「NINE」という映画を観た。
こちらは正妻、愛人、女優、雑誌記者、狂女、仕事仲間という風に様々な女性像がこれでもかと洪水のように出てきたので、ちょうどいいタイミングだった。
この映画はあまりヒットもせず評判もよろしくないようだが、歌とダンスの場面は皆よかった。
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志ん朝「百年目」
今日は「百年目」を聴いた。
以前米朝のものをDVDで観たことがある演目だが、大筋は知っていても隅から隅まで面白かった。
ドラマチックな大どんでん返しだとか、驚くようなアイディアというものがなく、人情話のように人間離れした優しさや許し、自己犠牲といったものも特にないが、それでも最初から最後まで落語の良さ、志ん朝の良さを堪能した。ちょうど季節的に花見の時期であるので、ぴったりだった。
「百年目」の旦那や「刀屋」の主人のように、誰かを諭す役柄が志ん朝は上手いし、きっと演じていてこういうのは気持ちいいんだろうな~と思う。
また、諭される側も上手い。諭される側の軽率な人間、見栄っ張りな人間、愚かな人間の言動や様子や、そういったもののまとまりとしての「人間の姿がある」、というだけで聴く側は唸る。
ただ志ん朝の描く人物はいつも品がよくておっとりしているので、「悪の魅力」なんてものは余り出てこない。そういうものが描かれるとしたらどのように描かれるのだろうか。
「志ん朝復活」で怪談のCDがあるので、次回はそれを聴く予定。