内容にほとんど触れない漫画評:未知の言葉との遭遇

 

 

子供の頃に読んでいた漫画の台詞の中には、未知の言葉が比較的多く含まれていたように思う。

比較的というのは、両親や友達との会話、テレビから流れ出てくる言葉、国語の教科書や児童向け読み物などに比べての話である。

例えば「子供向け」「低学年向け」としてあらかじめ手加減されている言葉の集積である読み物に対して、漫画の世界では大人の世界の言葉がいきなり手加減なしでヒョイヒョイ目の前に現れてくることが頻繁にある、という違いが確実にあった。

この違いこそが幼年期~少年期の「漫画の面白さ」の重要な一部を担っていたようにすら思える。

 なぜこういうことが起きたのだろうか。

漫画家の側から考えてみるなら、おそらく発表時には「幼年向け」「少年向け」「青年向け」といった雑誌別に描き分ける意識があった筈である。しかし単行本化されると「幼年」「少年」あたりの垣根は簡単に取り払われてしまうし「青年」「大人」もゴッチャ混ぜになるケースもある(例:「鉄腕アトム」)。


読者の側からすると、「漫画だから」という理由で親や教師が油断している隙に、少年~青年誌レベルの年代向けに描かれた漫画もすんなり買えて、読めてしまう。結果として小学三年生くらいの私は小学館の「小学三年生」を読んでもいたが、並行して少年誌や青年誌に掲載・連載されているような、対象年齢が二段階ほど異なる漫画にも日常的に触れていたのであった。

思うに「必ずしも子供向けではない漫画」を子供が読む際の違和感がもたらす面白さやスリルというものは、成長してからは二度と味わうことができないような貴重で儚い珍味である。今となっては、丁寧にそれを思い出して反芻するしかない。

という訳で今回は、漫画を通じて遭遇した未知の言葉を思いつくままに挙げてみよう。


と思いきや

これは「ドカベン」で、試合の実況中継のアナウンサーが言っていた言葉である。選手Aが何々をするべきだったのにしなかった、と思いきや、選手Bが何々をしたー!という風に使われていて、意味は何となく分かるのだが、特に「きや」の部分が、そこだけ訳の分からない異世界の言葉のように見えた。

 

グロテスク

オバケのQ太郎」でお婆さんが上京してきた回で遭遇した言葉である。これも前後の意味で類推できるパターンであった。確かお婆さんが水着を着て子供らの前に現れるのである。まさに「グロテスク」としか表現のしようのないジャストの用例であるため、この言葉をすぐに覚えて、つい人前で使ってしまいえらく驚かれた経験がある。

 

少年ヨンデー

これも「オバQ」で、「少年サンデー」のもじりらしいということは分かるが、他誌ならともかく掲載誌が「少年サンデー」で、なぜ「少年サンデー」と書いていけないのか、書かないのかは未だに理由が不明である。単に駄洒落を言いたかっただけなのか。

ちなみに「サザエさん」の場合は作中で子供らが「まんが」「マンガ」と表紙に書かれた、ありえない漫画を寝そべって読んでいたりする。これは何となく手抜きのように思えるし、言葉というより架空のオブジェのような立体感があった(やけに分厚いし)。

 

きんつば

藤子関係では「ドラえもん」に出てくる「きんつば」も、見たことも聞いたこともない言葉であり食べ物であって、ヨダレが出るほど魅力的だった(今でも食べたことがない)。「バイバイン」の回の栗まんじゅうなど、並の漫画家ならドラやきで済ませそうなものだが、あえて栗まんじゅうとしたそのセンスには恐れ入る。

 

セックス

これは「鉄腕アトム」の別巻に収録されていた話で目撃したのが最初である。アトムは一旦、アニメも漫画も終ったのだが、それ以降も手塚治虫には単発で読みきり短編の依頼が多くあって、集めるとそれだけで一巻にまとまるほどなのであった(私が読んだのはサンコミックス版だが、今の講談社文庫版でも似た内容の「別巻」はある)。

鉄腕アトム別巻 (手塚治虫文庫全集)

鉄腕アトム別巻 (手塚治虫文庫全集)

 

 総じてそれらは大人目線で「いい子」としてのアトムを揶揄したり、セルフパロディ的な内容のものが多かった。

その中に「より人間に近い、新しいアトムを作ろう」的な話があって、そこに「より人間に近づけるならセックスも必要でしょ」と言って性器をつけるおっさんとお茶の水博士とのやり取りがあったのである。

これがこの言葉を目撃した最初の経験で、何だか意味がわからないが語感が洒落ているので印象的だった(人前で言わなくてよかった)。

他にアトムの別巻では「鼻グスリ」「ワイロ」という言葉もあって、ある短編ではこの言葉がアトムと敵の巨大コンピューターの対決の鍵になるのである。

検索してみたら台詞が出てきた。

「いうなればワイロじゃ ワイロを知らん? つまり鼻グスリだっ わしの鼻のクスリじゃないよ おまえはむじゃきだ ロボットはわからんだろうが人間の社会は金がモノをいうんじや ウームなんでもよい」

当時の私は「ワイロ」が「つまり鼻グスリ」と説明されても、両方とも意味がわからなかったので少しも説明を受けた気にはなれなかった。

しかし、そういう「細かいことは抜きにして読み進む」というテクニックを教わってもいるわけなので、そこから得たものは実に測り知れないほど大きい。


レバニラ炒め

 これは赤塚不二夫の「天才バカボン」の中で遭遇した言葉で、他にも「パチンコ」「焼き鳥」「スナック」「キャバレー」「ノイローゼ」など、もう「大人」を通り越して「新宿ゴールデン街」的な世界の言葉である。レバニラ炒めというのは、今でも定食屋にあるのだろうか。とにかく手塚治虫藤子不二雄の世界にも、自分の身の周りにも存在しない食べ物であった。

 

やらいでか

私が「少年ジャンプ」を自分で買って読み始めたのは、「3年奇面組」が修学旅行編で京都に行っていた頃である。途中から読み始めて入っていきやすいかどうか、という基準があるとしたら「3年奇面組」は割とすんなり読める方の漫画であった。

なぜか「やらいでか!」「できいでか!」という台詞がたまに出てきて、最初は誤植ではないかと思うほどの違和感があった。

 


これ以降は中学生になって、バターを「バタ」と書いてある海外文学や、日本SFの第一世代の作家の書いたものを読むようになってくる。そうなると謎めいた言葉は飛躍的に増える(例:「当局」「またぞろ」「かしらん」など)のだが、もう漫画という領域からはかなり離れた場の話である。

「今はもう当然のように意味を理解しているが、かつては意味のわからなかった時期もある言葉」
への郷愁のことを何と呼んでいいのか分からないが、何故か漫画で知った未知の言葉には格別に深い愛着を感じる。私は「ふるさと」とか「故郷」といった言葉には少し冷淡な所があるし、帰属意識や所属意識をあまり持ちたくないのだが、今回挙げた言葉は月並みながら「心のふるさと」と言えるかもしれない。

 

今回の漫画ニュース:阿部共実の「死にたくなるしょうもない日々が死にたくなるくらいしょうもなくて死ぬほど死にたくない日々」は日本最長のタイトルかもしれない!

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