前回は「読書会をやろうとすると、課題図書の選定が難しい」といった辺りで話が終わってしまった。
今回はそもそもなぜ自分は「読書会」をやりたがっているのかについて書こうとしたのだが、実はよく分からない。
「子供の頃に参加した、あの読書会が忘れられない!」とか「理想の読書会はこれだ!」といった明解なヴィジョンが全くなくて、ただやりたがっているだけである。
たとえば城山三郎の「少しだけ、無理をして生きる」の中には、昔風の読書会の話題がチラッと出てくる。一冊の本を中心に激しく議論を交わして、傍目には喧嘩しているようにしか見えないといった熱気あふれる会なのだが、いま現在の日本でそういうスタイルの読書会を理想として考えられるかというと、少しどころか、かなり無理がある。
それに人を集めたり、会を仕切ったり、事務的な連絡をする、といった作業はどちらかというと苦手だし、自ら読書会の「会長」をどうしても名乗りたい!といった名声欲とか権力欲といったものもない。となると単に「読書会」という言葉の響きそのものが好きなだけかもしれない、とすら思えてくる。
ついでに言うと「ブッククラブ」という言葉の響きはもっと好きで、海外の小説を読んでいて、
「何とかブッククラブから今月の本が届いたよ!」
などというセリフがあると、気絶しそうなくらい羨ましい。
「その本は何ですかー!せっせせ先月はどんな本が届いたのですかー!そっそして、来月はどんな本が送られてくるのですかー!!」
と興奮して叫びたくなる。
日本にもブッククラブはあるのだが、幼児~子供向けのものが多く、これが大人向けとなるとまた読書会以上に選書が難しくて大変だろうなと思う。
今の日本で出入り自由のブッククラブに近いものとしては、
「村上春樹のファンが村上春樹の訳した本を楽しみに待っている」
という状態はある種の理想的ブッククラブと言えるかも知れない。
早すぎず遅すぎず、ほぼ定期的なペースで、信頼できる人が本を選んで、信頼できる訳を届けてくれて、そこそこ古い本も新しい本も混ざっている。まったく羨ましい限りである。