落語日記 51-55

 

 

「読ホリデイ」の下巻も読了、しかし落語の話は無し。その上、いくら何でもミステリの紹介をするのにこれはないだろうというような変な回もあった。

また、「これでは結末がわからない、犯人もわからない」と悩んだりした挙句、実は最後までその小説を読んでいなかったことに自分で気付いたりする回もあって、その衰え振りが痛々しい。

 

都筑道夫の読ホリデイ 下巻

都筑道夫の読ホリデイ 下巻

  • 作者:都筑 道夫
  • 発売日: 2009/07/25
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 
しかしわざとやっているように見えなくもない。
ある意味、落語的な感じがする。
「粗忽長屋」のような、いわば「粗忽書評家」だ。

内田樹の「昭和のエートス」は、一見落語のことが書いていなさそうで、実はちょっと書いてある本としてメモしておきたい。

 

昭和のエートス

昭和のエートス

  • 作者:内田 樹
  • 発売日: 2008/11/21
  • メディア: 単行本
 

 

無人島レコードのアンケートで、まず落語の自作CDを挙げている。

 

 

今日は桂米朝の「看板のピン」を聴いた。これは割と有名な噺らしいが、全くどんな内容か知らずに聴いて、大変面白かった。

間抜けな人間が誰かの真似をして失敗するというパターンの噺で、「時そば」「子ほめ」と同じ構成になっている。これらの似た噺はいずれも「目先だけの真似をしても成功しない、必ず失敗する」という教訓を読み取ろうと思えば読み取ることができる。

けれども真似をするということはさほど悪いと決まっている訳ではない。「学ぶ」の語源は「まねぶ」であると言うし、落語だって師匠のやる噺を真似して言って、それを見てもらって上げてもらうのが本道であるので、何だかその辺りと矛盾している。

真似を否定しているというより、安直な儲け話とか、安っぽい欲望を持つことへの戒めとか、そういう風に捉える見方もできるので、一概にどうこうとは言えない。

ついでに言うと落語はコピーまたコピーの連続で歴史ができているようなもので、これも例えば絵画と比較すると変なように思える。

ダ・ヴィンチの弟子がモナリザの複製を描いて「師匠に認めてもらいました」と言っても、それはモナリザとは見做されないだろう。ドラえもんだって、変なアシスタントの描いたドラえもんはドラえもんじゃないような気がする。しかし口承文芸の世界ではそれは正統な作品と見做される。

 

 

・アランの「幸福論」を再読していて、有名な「悲観は気分によるもの、楽観は意志によるもの」という最後の方の章を読んでいたら、楽観と雄弁の関係がチラッと出てきてやや落語のことを想起した。

・「西遊記」の今の岩波文庫の訳はちょっと関西弁が入っていることに気付いた。
「あほんだら」とか「なんちゅうこと~」という言い方がしょっちゅう出てくる。

・「情熱大陸」の川上未映子の回を見て何となくこの人が支持されている理由が分かった(太宰治と椎名林檎を足して2で割ったような感じ)。
自分としては上方落語とか談志との兼ね合いで興味を感じるので、ちょっと読んでおこうと思う。と思っていたら菊地成孔の日記に出てきた。ところでこの名前の「未映子」という部分は、そこだけ見ると「未だ映えない子」ということになるので、ちょっと変な気がする。

・とか色々と思いながらこの人のブログの「私はゴッホにゆうたりたい」を読んでいたら、何だか妙に感銘を受けてしまった。
しかしこれは中学生向けの国語の教科書に載ってもおかしくないような、感動の名編でありながらも、どこか規定路線と言うか、関西弁のところが反則と言うか、弔辞っぽいズルさと言うか、以前保坂和志が「感動物のパターン」として挙げていた例にそっくりやん、と冷めた目で少し検討してしまった。

・おそらくこの人もどこかで関西弁の微妙に「あざとい」感じに気が付いたのではないだろうか、だから標準語で「ヘヴン」を書いたんだろうと思いながら新聞を読んでいたら保坂和志がエッセーを書いていて、「小説は裏の意味を考えたりせずに、表面の言葉の意味をそのまま受け取ろう」なんて言っていた。

・小さい女の子が主人公の落語というものはないように思う。男の子は笑い話なんかでもよく出てくる(小坊主とか)。

 

 

この2,3日ずっと川上未映子のブログを読んでいるが、
何となく関西弁の文章を読んでいると「ちりとてちん」の
かんじやしほり、わくいえみ、かみぬまえみこ(漢字で書けない)の三人の声とイントネーションが頭の中に甦ってくる。

ところで内容的には、関西の人は何でまたこれほどまでに「屁」や「おなら」のことばかり書くのだろうかと疑問に思うほどで、このブログにも上方落語にもしょっちゅう出てくる。

しかし、江戸の落語に「おなら」「屁」というものはほとんど出てこないと思う。また、東京にいる小説家はブログで屁のことなど書かない。

 

 

CDで春風亭昇太の「ストレスの海」「力士の春」を聴いたものの、何だか途中で集中力が途切れて、どうでもよくなってしまった。

どうも春風亭昇太の新作落語というものに馴染めない。
この人に関しては古典落語の方がずっといいように思うが、世間的には両方うまいと思われているようだ。

ちょっと結論を出しかねるので、また何か別の噺を聴いてみたい。

 

今回は12月に国立演芸場に行ってきた時の感想を書く。

「あっ、明日はちょっと時間があるから行ける」

と思って、前日にチケットを取ったら前から5列目くらいの場所だったので「自分のうしろはガラガラか」と思って行ってみたら入り口に「満員御礼」と書いてあり、2階のトイレの前に大行列ができているほどだった。男用のトイレに入ってこようとするお婆さんがいて制止されていた。

これらは皆、老人の団体客らしかった。それで5列目以降は
老人がびっしり入っていた。

さていきなり、前座の子が出てきて客席が沸いた。

なぜなら、それが若い女の子だったからである。
その子は二十歳かせいぜい二十三、四歳くらいにしか見えない子で、自分の名前は春風亭ぽっぽだ、と自己紹介した。
また、春風亭小朝の弟子だとも言った。

何でか急に女の子が出てきて、しかも背が高くてオカッパで、
愛嬌のある感じの子だったので拍手が沸いて、「がんばれー」という声援まで飛んだ。

私もビックリして、しかし女の子の噺家さんで前座なんだから、あんまり上手くはないのかな~と思って見ていたらかなり上手な「子ほめ」だった。とにかく声がよく通って、聴き易くて、明快で、愛嬌があって、姿勢がよい。これだけ揃えばもうかなり合格だと思う。

この人はかなりの拾い物だった。ミクシーの中にはこの人の
コミュまである。

 

次は三遊亭金兵衛という人の「初天神(はつてんじん)」。

これは余りよくなかった。
まず顔に余り表情がない人で、何となく親しみがわかない。
それは欠点とまでは言えないが、
子供が駄々をこねる場面が「あまり面白くない」というより
ほとんど「不愉快」に近いほどで、うんざりした。

「買って買って買って買ってーーー!!」

と子供がお菓子や何かをねだる場面はうるさく感じられた。

また、父親が団子に蜜を付けたものを舐めてしまう場面は汚い感じがした。

ウィキペディアにも書いてある。

「父が息子に団子を買い与える場面もある。先に父が団子を散々舐めて、蜜を舐め終えた団子を息子に渡す。この場面を、汚くて不快であり、話すべきではないとする意見もあり、この部分を割愛する落語家も多い。また、その逆にすっかり舐め終えた団子をまた蜜壷に漬けて子供に渡す場面までを面白おかしく演じ、そこでオチにつなげてしまう落語家も多い。」

ここは私が思うに、「甘いもの」の価値が今と昔とでは違うという点が問題なのではないか。

かつて、子供が甘い団子をねだって親が買い与える場合、
親だって本音では甘い団子を食べたい、しかし二本は買えないから子供に与える一本だけで、自分は我慢するという状況がかなりあったのではないか。

かなりは無くとも、心理的に思いっきり蜜をなめてみたいと思う事があったのではないか。

だからこの場面では「汚い」と感じるより、「一度でいいからやってみたい」という願望が噺の中で叶えられた喜びの方が大きかったのではないか。

しかし今では、そういう願望が薄れた分だけ、おかしみが減った、ほとんど再現不可能なくらい消えたという、そういうことではないかなと思った。

また、そのことに噺家が気付いていないのではないか、とも思った。

 

(続く)