落語日記 56-60

 

 

前回の続き。

三番目は柳家〆治の「そば清」。
これはほとんど覚えていない。
やはり少しでも覚えているうちに、感想を書いた方が頭に残りそうだ。
次からはそうする。


四番目は奇術の花島世津子。
この人はトランプをだんだん小さくしたり、切ったり。


五番目は柳家小里ん。この人も印象に残っていない。
しかし「蜘蛛駕籠」をやってくれた。
これは初めて聴いたのでよかった。


六番目は何と、あの有名な人間国宝、柳家小さんの次の代の柳家小さんだった。

この人はいつも談志から「下手だ下手だ」と言われていて気の毒に思うので、やや贔屓目に、少しでもいい所があれば大いに高く評価しようではないかと思っていた。

しかし、やはり平凡な印象しか残らなかった。

「茶の湯」をやったのだが、この噺は「お茶」というものをよく知らない隠居と小僧が、二人して適当な茶の湯を作り上げてしまうという変な噺。

で、青きな粉とかいうものが出てきて、それをお湯に溶かして飲んで「これが茶の湯だ」なんて気取って飲んで下痢をする場面がある。

ここで二人の会話があって、

旦那「昨晩わしは腹を壊して27回もはばかりに行った」
小僧「わたしは1回です」
旦那「やはり若いモノは丈夫だ」

みたいなことを言うと、

小僧「入ったきり出られなかったんです!」

という笑わせどころがある。
これは50年くらい前の金馬の落語の頃からこの調子で、この日も同じようにやっていた。

がしかし、このやり取りにはちょっと変なところがあって、
夜から朝までの間に何度も何度もはばかりに行った旦那と、
一度入ったきり出られない小僧とがいたら、鉢合わせになるはずである。

 

やはりこれはおかしい、と思っていたら、
志の輔の「茶の湯」ではここの部分に少し手を加えていて、
旦那は母屋のはばかりに、小僧は離れのはばかりに行っていたという風にしていた。

手を加えたと言ってもほんの一言、小僧が、
「私は離れのはばかりに一度だけ行きました」

という程度に変えてあるだけなので、気付かない人は気付かない。

しかし、そういう所に神経が届くかどうかということはかなり大きい差になる。この部分だけで判断してはやや気の毒だが、小さんvs志の輔で比較したら、どうしようもないほど志の輔の方のランクが上になってしまう。


 

昨日は最後に志の輔のことを書いたら、今日のほぼ日にも志の輔のことが書いてあった。

一応コピペしておくことにする。

 

 ・渋谷に行ってきました。
 むろん『志の輔らくごin PARCO』です。
 志の輔さんは、ここで一カ月、公演を続けています。
 こういうこと、もう5年もやっているって‥‥。
 三席の噺のうち、やっぱり最後の『中村仲蔵』、
 なんだろう、緊張感がおもしろかったなぁ。
 思えば、「緊張」とか「静けさ」を描くことが、
 この人情噺の中心なんでしょうけれど、
 物語のなかの芝居小屋の緊張感と、
 パルコという、ぼくらのいる劇場の緊張感が、
 どっちがどっちだかわからなくなるんですよね。
 
 実は、この『中村仲蔵』という噺の感想を、
 清水ミチコさんからちょっと聞いていたんですよ。
 「中村仲蔵に感心しているんだか、
  それを演じている志の輔さんに感動しているんだか、
  わからなくなって‥‥」
 というようなことを言ってた。
 
 うん、人も、場所も、師弟の関係も、芸術論も‥‥
 複雑な入れ子構造になっていて、
 その入れ子構造のマトリョーシカ人形のなかに、
 観客であるじぶんが紛れ込んじゃうんです。
 うーん。うまく言えてないなぁ、おれ。

・それはそうと、なんですが、
 立川志の輔さんって、テレビという場所で、
 「テレビ的コンテンツの作り方」を、
 ほんとうによく学んでいるなぁっと思うんです。
 落語のなかでも、「つまらない」と言われている噺や、
 「複雑すぎてなにがなんだかわからない」という噺を、
 志の輔さんはどっちも平気で高座にかけているんですが、
 そういう「難物」をお客さんにわかるように演れる、
 という自信は、テレビから学んだものだと思うんです。

 具体的には、NHKの『ためしてガッテン』ですが、
 「わからせる」ことと「興味をもたせる」ということを、 
 どっちも確実にやれている番組でしょう。
 ここでの経験が、次々に試練に乗り出せる落語家の、
 大きな支えになっているような気がするんですよね。

今日も「ほぼ日」に来てくれて、ありがとうございます。

 

 

七番目は漫才で、大瀬ゆめじ・うたじの漫才。
まったく印象に残っていない。


八番目は三遊亭金馬。有名な金馬の次の代の金馬で、高齢の上、足を悪くしており正座ができないということで、見台を出しての落語だった。

それでいざ喋り始めてみると、やや声が小さいので最初は聞きにくいと思った。

がしかし、今回は江戸家猫八さんの襲名披露で……、先代の猫八さんとはこれこれの思い出が……、という枕の雑談で引きこまれた。

そして噺は「親子酒」。
これは以前、youtubeで馬生の「親子酒」を観ていて、これ以上のものはないのでは?と思っていたが、まったく普通にやっただけなのに今回の金馬のものは大変面白かった。

この人は、ただこの噺をやるだけでも充分食べて行けるのだなあ、と妙な感心をした。

前の回で少し触れたように、微細な工夫や磨きなおしをして落語をする人もいれば、当たり前の噺をごくごく普通にやって面白い人もいるのだということを知った。


九番目はニューマリオネットというお爺さんが出てきて、獅子舞のあやつり人形を操る芸を見せた。
写真では男女(夫婦?)のコンビだが、この日は一人だった。
獅子舞が舞台から落ちそうになったりした。


で最後は、江戸家子猫改め、猫八が登場。この人は私が子供の頃から全く変わっていないような気がする。

また、私の頭の中では水谷豊や国広富之とも重なっている。

それはともかく、色々な物真似を見せてくれた。

にわとり、うぐいす、ほととぎす、かっこう、筒鳥、ジュウイチ、コオロギ、鈴虫、マツムシ、かえる、猿、ゴリラ、らくだ、駝鳥、カンガルー、もぐら、犬、ダックスフント、柴犬、ボクサー、ドーベルマン、シェパード、チワワなど。

「もぐら」というのはメモしてあるのを写したのだが、もうほとんど忘れた。
確か、「もぐらも鳴くんですよ!」みたいな事を言って、
「イッ!」とか言ってお終いだったような気がする。

最後はお手を拝借ということで、パパパン、パパパン、パパパンパンと客が叩くのに合わせて、
猫八師匠はチワワの鳴き真似をする、そういう終わり方だった。
確か話の途中でブザーが鳴って、終演の時間になっていたが、そんな事にはほとんど構わず、15分くらいオーバーしていた。


という訳でこの12月の中席は、前座のぽっぽちゃんと、三遊亭金馬が非常によかった。
他も色々と考えさせられることが多く、まずい物も含めて愉しむことができた。


ちなみに明日は、非常に有名な超大物の噺家さんの落語を聴きに行く予定なので、なるべく忘れないうちに感想をメモしておきたい。

 

 

三日分ほどまとめてメモしてみよう。


20日…CDで高田文夫の「鰻の幇間」を聴いた。
せわしない。時事的くすぐりが多い(マイク・タイソンが対戦相手の耳に噛み付いたなど)。しかし「うひゃひゃひゃ!」という乗りに押されてついつい笑ってしまう。


21日…桂三枝の独演会に行ってきた。
みな創作落語で、「僕たちヒローキッズ」「アメリカ人が家にやってきた」「鯛」「親娘ん活」。

「僕たち」は三弥、「鯛」は三歩というお弟子さんがやった。

どれもソフトな感じで聴いていて楽。もたれない。こなれている。くどくない。サラリと軽い。

おもろければええやん、という感じ。これなら毎日毎晩聴いてもいいと思った。

後になって談志のインタビューを読んでいたら、自分は落語の改作や発掘や、滑稽話、人情話、ギャグやくすぐりの追加、何でもできるがどうしても創作だけはできないと言っていた。

三枝は談志のやることは何もせず、創作落語に打ち込んだ人だと考えるとそのポジションがよく見えるようになるのではないか。

ちなみに「新婚さんいらっしゃい!」は番組開始から40年にもなるのだという。ミスタードーナッツももう少しで40年だとCMで言っていた。自分も今年で40歳になるので、同期として「新婚さんいらっしゃい!」とミスドに負ける訳にはいかない。


22日…「寄席芸人伝」の1から3巻までまとめて買った。
シンプルな絵、シンプルな話、今の漫画とは比較にならないほど素朴。しかし1巻後半から微妙に上手くなる。

 

 

昔昔亭桃太郎のCDで「金満家族」「結婚相談所」を聴いた。
「金満~」は、ひたすら金持ち振りを誇張して描くホラ話系の創作落語。これは面白かった。

 

昔昔亭桃太郎1

昔昔亭桃太郎1

 

 


昔昔亭桃太郎「金満家族」

 

「結婚相談所」はひたすら駄洒落ばかり。
これもひたすら言われているうちに段々楽しくなってきた。

この人は全く人物の演じ分け、描き分け、性格の描写、なんてものをしない。

政治風刺漫画の横山泰三のように、人物が雑な線で描いてあって、胸の辺りに「夫」「妻」「長男」「次男」と書いてあるような感じ。

 

 

今日はDVDで「グラン・トリノ」を観た。

 

グラン・トリノ [Blu-ray]

グラン・トリノ [Blu-ray]

  • 発売日: 2010/04/21
  • メディア: Blu-ray
 

 
内容は全く落語的ではないので、落語日記に書くことはゼロか、と思っていたらイタリア人の床屋の場面が落語っぽかった。

「人のやることを真似て失敗する」
「人のやることを真似て滑稽になってしまう」

という落語によくあるパターンと同様のおかしさがあった。