落語日記 66-70

本を整理していたら和田誠の「落語横車」が出てきたので再読した。

この本は和田誠の書いた新作落語と、落語に関するエッセーや対談をまとめたもの。以前にも一度読んだが、当時はさほど落語に興味を持てなかったので、内容があまり記憶に残っていない。

 

落語横車 (講談社文庫)

落語横車 (講談社文庫)

 

 

今回は落語に関する興味も知識も増したので、やや厳しい目で読んでみると、まず対談やエッセーは割と面白かった。可楽の真似をするフランク永井とか、志ん生が亡くなる直前、歩けなくなってからのエピソードなど。

新作落語は今ひとつだった。落語風の口調や雰囲気はあるものの、どれも元になる噺があって、それをなぞっているようなところがあるので、ちょうど顔に対する似顔絵のようなもの。そこで止まってしまっている。

しかも皮肉なことに、古典落語元々の古い部分をそのままなぞった箇所は古びていないのに「タイムトンネル」「ノストラダムスの大予言」「日本沈没」といった言葉や話題は半端に時代性を漂わせていて、古くなっている。

芭蕉の俳句が実は現代を予言していた、という噺は途中まで面白かったが、やや物足りない所で終わってしまった。

何かを何かに見立てるのは難しいと思っていたら「ちくま」の岸本佐知子の連載がちょうどそういう内容だった。お正月の鏡餅や角松、おせち料理などの由来を語りながら、それが神と人類の戦いの名残であるとするもの。落語ではないが、落語っぽいアイディアと面白さが横溢していて、しかもたったの2ページ。これは実に面白かった。和田誠の落語の面白さが10点満点で3~6点くらいだとすると、岸本佐知子は余裕で8点は越える。

 

 

平岡正明による、談志を中心とした落語論を本屋で見かけたので即購入する。

 

立川談志と落語の想像力

立川談志と落語の想像力

  • 作者:平岡 正明
  • 発売日: 2010/03/01
  • メディア: 単行本
 

 

去年の今頃は「昭和の名人」というCDシリーズが出たばかりで、まだ生きていた平岡正明もそれを聴いていたのだった。自分は一年遅れでつい最近聴いたばかり。

でそのシリーズの一枚目の「夢金」の金馬のものを今日聴いた。
声が違うと印象も違って、金馬に比べると志ん朝は高い声で、ややせわしなく思えるほどだった。やはり金馬はうまい。

平岡正明の本でもこの両者を比べていたが、金馬の欠点として善意や甘さを挙げている。自分は金馬の「薮入り」を贔屓しているので、それを戦後の価値観で甘いと言われると的外れのように思えた。全体としては談志の話題が多く、読み終えるのが惜しいほど。

 

 

今日は志ん朝の「抜け雀」を聴いた。
全部で50分近い、やや長めの尺だがその長さをほとんど感じなかった。志ん朝の代表的名演は「愛宕山」になっているようだが、個人的には別に「抜け雀」でもいいと思う。落ちのためにわざわざ枕を用意しないといけない所が苦しいのだろうか。

 

 
ところで落語的なものを現代に置き換えると、これはこれに当てはまりそうだというものが幾つかある。例えば一見古臭い親子の情を描いているような噺であっても、それを現代のペットと飼い主の関係に置き換えてみるとうまく通じるとか。

言い換えると、現代における落語的なもの。
或いは別のジャンルにおける落語的なもの。
或いは落語に関係無さそうだけど落語的と思われるもの。
などを幾つか挙げてみよう。

ちなみに昨日読んだ平岡正明の本では「二階ぞめき」と「さかしま」を比較していた。


1、悲喜劇

落語を「落ちのある話」と見るなら小説にその種のものは幾つかある。ダール、スレッサー、星新一など。

もう少し角度を変えてみると「本人にとっては悲劇、他人にとっては喜劇」或いはその逆という滑稽な話が落語には多い。
その種の話としての山田詠美「晩年の子供」。

 

晩年の子供 (講談社文庫)

晩年の子供 (講談社文庫)

  • 作者:山田 詠美
  • 発売日: 1994/12/07
  • メディア: 文庫
 

 

女の子が主人公という点が落語っぽくないが、もし女の子を主人公にした現代落語、新作落語があるとしたら、この小説はかなりそれに近いと思う。


2、熊さん八つあん

熊さんや八つあんは「身近にいそうな親しみやすい人々」の例として挙げられる。三浦しをんのエッセーに出てくる、漫画好きの友達などにはそういう趣がある。


3、お侍

侍や浪人は、刀を持っていて、一歩間違えると町人を殺したりする。
町人にとっては厄介で怖い存在。
今、それに近い存在は何かというと、アメリカのような銃社会で銃を持っている人と丸腰の人のようなものだろうか。

もっと理不尽なテロや無差別殺人が近そうな気もするが、そういうものは実感としてはさほど怖くない。

例えば、会社の中での怖い存在としての人事部。辞令。こういうものの方が無慈悲で暴力的で逆らえない分だけ怖いような気がする。


4、問答もの、疑問に思うこと

落語ではよく根掘り葉掘り物事を問いただす人物が出てくる。
その問答を描いたものを根問物という。
「海のずっと先はどうなっているんで」というやつ。
しかし、その手の疑問は根本的には科学が進んでも解決していないし、かえって分からないことが増えただけという気もする。
宇宙論や時間論、素粒子論。科学全般。


5、夢落ち

「現実と非現実の区別がつかない」という度合いにおいては、夢落ちを嘲笑することはできない。とりわけオンラインRPG、3D映画、ネットバンク、カード全般。


6、文七元結

文七元結のように、困った人に自分の大事なお金をあげてしまうという人は、今いるであろうか。
例えば「いのちの電話」で電話の受付をしている人が、相談者の話につい同情してしまい、自分の貯金のかなりの額を与えてしまう。
ということがあれば、少し文七に近いかもしれない。

 

 

今日は志ん朝のCDの続きで「厩火事」を聴いた。
これは文楽のCDで聴いたことがあって、さほど大きく印象が変わるということはなかった。

 

 

この噺はどうも落ちが弱い気がして仕方がない。落語は必ずしも落ちが重要ではないと思うが、何かもっと鮮やかな解がありそうな、もどかしい思いがする。

昨年買った円生、文楽、正蔵、志ん生などのボックス物はもうほとんど聴いてしまったので、新しい発見に乏しい今日この頃だ。

志ん朝のCDでセットものは他とのダブりが多く、談志のものは量が多すぎてどれを買っていいのかよく分からない。一応まだ残っているのは米朝のものだが、今月でほぼ聴き終わるので、この先どうするべきか。

 

 ↓

 

昨日は桂米朝の「天狗裁き」を聴いた。

これは志ん生のものが非常に好きで、何回か聴いている。

がしかし、米朝のものは冒頭から非常にシンプルで「どんな夢を見たのか教えろ」と主人公を問い詰める人物が女房、隣人、大家、大名、天狗とエスカレートしていって、そこで唐突に終わってしまった。

「何でここで終わりなんだよ!ここからがいい所だろ!!」

と言いたいが、志ん生の脚色がそれだけ優れているということなのだろうか。

ちょっと聴いた限りでは、一番最初に「夢を見させる理由」からして志ん生の方は明解(近所の人が夢のお告げで大もうけした)だが、米朝の方はあまり理由が無い。ただ「どんな夢なのかこっそり教えてもらいたい」「気になる」というだけで押すので、これはこれで別種の面白さがある。駄目という訳ではない。

それから「夢を見ていないのに、見た内容は言えない」という主人公の弁明の部分で志ん生の方では、

「嘘でもいいなら幾らでも言える。たとえば蛙がしゃっちょこ立ちして一緒に相撲を取ったとか」

云々という変な夢の例が出てくるのだが、これも米朝の方には無かった。

そういう訳で色々と違うのだが、どこからどこまでが志ん生の付け足しなのか、今ひとつ分からない。

と思っていたらテレビで林家正蔵(こぶ平)が、「死神」に自分が加えた工夫を語っていた。死神が病人の頭の方にいるとその病人は死んでしまうので、布団ごと病人の向きをクルッとひっくり返すという場面で、登場人物が急にそのことに気付くのは不自然だから、キセルを逆向きに持って吸おうとしてそのことに気付くようにしたのだ、と語っていた。

こうした工夫も十年二十年経ってしまえば誰の発明だか分からなくなるので、今のうち自分でアピールしておこう!と考えたのだろうか。何となくこぶ平がそういうアピールをすると、みみっちい感じがする。